箱舟が出る港 第五章 二節 軍神たち 三

murasameqtaro2007-03-10

「その舟は出るの
ですか・・・?」
か細い女の声が聞こえ、
笹島京平はああ?
と寝ぼけた声で
振り向いた。
振り向けば綿飴のような
粘ば粘しい濃霧が、
女の顔を撫でていた。
貴婦人が被るかの帽子を深くしたその様は
まるで浮世絵のようで、この魚市場
近くの鉛色の風景には不自然で似合いそうもなかった。
よく見れば白い冬物のコートの襟を立て、とても寒そうにしている。
帽子から出た茶色い髪が、風もないのに幽々と揺れていた。
「・・・五時半に出るぜ。 それがどうかしましたか?」
京平は訝しい表情を女の帽子に置いた。
「乗せて頂けないかしら・・・お仕事の邪魔はしません」
年のころ二十代の後半であろうか、帽子を脱いで頭を下げた女の顔はやつれた
色が濃い。
生活苦か、恋人に裏切られた時の哀しみが棲む顔つきだった。
「私、剣持順子と申します」
瞳に何条もの細い糸筋が見える。紅い紅い糸筋であった。
充血したその眼はうつろであったが、京平のような単純な男には、見抜けなか
った。
睡眠不足の女の眼は、色っぽい、と誰かに聞いた事がある。
「キャビンに居てくれればかまわねえが・・・でもどうしたというんだい?」
疑うような横縞が、京平の眼から、消えていた。
「海が見たいのよ・・・迷惑はかけないから、乗せて頂戴」
ライフジャケットの後ろには、【彼女募集中】との恥ずかしい広告を書いた京平の
格好であった。【誰でもよし】とその下に小さくも書いてある。
「寒いのかい ? 風邪でもひいたのかい、 あんた?」
京平は、下腹の出た巨体を伸ばし、順子に近づいた。
コートの下にはタートルネックの赤いセーターが見える。
「もう中秋よ? 貴方は寒くないの?」
「馬鹿言っちゃいけねえ。暦じゃそうだろうが、今日も三十度は越えるはずだべ、
見ろあれを」
道の向こう側は民宿が点々とし、物干し竿には水着が載っていた。
早起きの子供なのだろう。
青い浮き輪を持った小さい影が界隈を駆け巡っていた。
濃霧はすでに消えかかりつつある。日輪が薄く現れていた。
「そう? 感じる事は皆同じなのね。ずれてしまったのね、みんな」
「・・・どうでもいいが、乗るのか、乗らねえのか、はっきりしてくんない」
おかしな女だと思いつつ京平は圧力をかけてみた。
確かに誰でもよいが、気が触れたブスな女だけは用はない。
異常さを隠しても余りあるほどの神秘さと艶を順子は湛えていた。
精神の極限にたどり着く時、狂った者でも一時的に人は美しいオーラを放つとい
う。正常者ならアスリートがそれに該当する。
言葉、語気は荒いものの、頬が心なしか染まっている。
海に生きる者のお手本とでも言うべき、かたち、である。
ある種の期待を込めた朱であった。そして京平は未だ若かった。
「乗らせて」
「十時まで帰れねえよ。それでもいいのかい? 揺れるぜ、剣持さんとやら。
四時間ちょっとは男でもつらいぜ。吐くかもしれねえよ」
「いいわよ」
剣持順子は躊躇なくコートの裾を翻した。




「引けえっ!!」
羽の音が聞こえた瞬間、毒島は号令をかけた。
黒い塊が、三階建てのビルから舞い降りてきた。
舞い降りたベルゼブブは、アイナメの死骸に、掃除機の筒のような透明で鋭いも
のを突き立てた。
あっという間に、魚の死骸は、筒の中でグレー色のジュースのように分解され、
蝿の化け物の体に吸い寄せられた。
刹那マンホールの蓋がガランと飛び上がった。
驚いたベルゼブブは飛び立とうと体制を整えたが、遅かった。
知流大吾がマンホールの中で、化け物の足を引っ張っているのだ。
「今だっ、やれっ!!」
知流の気合と共に、まず空手が化け物の頭を襲った。
準幹部、四段の猛者の足刀が風を巻いて、即頭部に激突した。
バットを三本へし折るその衝撃なら、人間など即死だ。
ゴキッ、鈍い音がして、空手の猛者は体を崩して路上に倒れた。
・・・折れたな、ダメだ頭は、仮面をつけている
毒島は次、と顎で角刈りの巨漢を促した。
髭を生やした相撲取りは四股を踏むと、肩口からのぶちかましの姿勢で突進し
た。
「どすこい!!」
身長二メートル、体重二百キロはある巨体が、化け物の胸にこれも激突した。
ゆらりと体を後ろ向きに折ったベルゼブブだが、激突する前にその鋼鉄の触手
が相撲取りの肩口を貫いた。
ギャッ!!
相撲取りの右腕は皮を一枚で残し、肩から切断されていた。
鮮血がアスファルトを染め、ポパイのような顔をした鉢巻オヤジは、たいへんだ
と店の奥に逃げた。
「動くなっ、いいから見ていろっ!!」
知流は渾身の力を込めて、化け物の足を引っ張った。
いわゆる「閂」=かんぬき=の技である。
両手で金属の足首を千錠し、己が足をマンホールの階段から外し、化け物の体
に鬼のような形相で全体重を掛けぶら下がった。
ベルゼブブの下半身は序々にマンホールの中に陥没し、落とされまいと羽と両手
がコンクリートにしがみ付いている。
「今だっ、倒せ!!」
大吾が暗い底で吼えた。
それを聞いた黒澤が、リズミカルにシャドーを舞い、鋼鉄の手を慎重にクリア
しながら、眉間にハードパンチを入れた。
垂れた顔にカウンターが炸裂し、ゲェと化け物が叫んだ。
間を置かず、腹に、毒島の貫手が続いた。
動くことが出来ない羽を荒木田が力まかせに引っ張った。
「ようし、白拍子、首を絞めろ、殺すなっ!!」
三メートル程の間隔で設置された隣のマンホールから、大吾が仁王のように這
い出て着た。
その時だった。
木の陰で事の成り行きを見ていた物見遊山の輩が、勝負あり、と思ったのか、
眼鏡をかけた男を先頭にのこのこと這い出て来た。
「馬鹿がっ!! 出て来るなっ、 すっこんでいろっ、まぬけ!!」
黒澤の絶叫が終わらないうちに、眼鏡の中年の首は切断されていた。