箱舟が出る港 第五章 二節 軍神たち 四

murasameqtaro2007-03-11

綺麗なオイルがよく行き届いて
いるのだろう。
笹島丸のエンジンには
春風が棲んでいる。
乱暴者で中学もまともに出ていない
笹島京平であったが、
舟の手入れだけは行き届いていた。
かつての大不良も謹格を極めた印象である。
大洗フェリーターミナルを右側に見ると、
その向こう側は海釣り公園である。
そして公園の埠頭を区切りとしたように、そのまた向こう側は大洗サンビーチで、
早朝にも関わらず、色とりどりなサーフボードが熱帯魚のように流れて、サーフ
ァーの歓喜は泡雲の形を変えていた。
霧が晴れた今日も夏になりそうである。



「沖合い八キロ、あと三分でポイントに着く。今日も凪がねえ。良かったなァ
順子さん」
釣り座で波風を受けていた順子に、京平はアイスコーヒーを渡した。
順子は、アイス、この寒いのに? と言いかけたが、素直に好意を受け取った
「おらは支度をする。あんたはキャビンに居るがいい。冬にはこの舟は乗合船に
なる。釣り人相手の船宿だべ。ちょっとした応接室だ、海を見るなら最高
だっぺ」
「・・・ありがとう」


京平の漁は、はえ縄。餌をカニとして主に真鯛を狙う。
市場に持ち込めば、キログラムあたり800円で売買される。
水揚げ量は一日平均四十キロ。三万二千円である。
原油の高騰が続き、油代、保険などの必要経費を差し引くと、手取りは二万に
満たない。
日給二万はさほど悪くはないが、丘で働く人々にない危険が存在する。
いつか聞いた誰かの歌のように、板子一枚下はまさにあの世かも知れないのだ。
嵐には船は出せない、当たれば大きいが、安定した職業ではないかも知れない。
居眠る波に大きなアカクラゲが浮かんでいた。
波の旋律に併せるように、血管のようなゼラチン質はゆったりと何かを見張って
いるようだった。



「天然ものの真鯛、養殖とはふた味以上違う。大漁だったら食わしてやっぺぇ」
キャビンに入ろうとした順子は足を止めた。
「・・・今・・・なんて言ったの? 」
キャビンへの短い階段に伸ばした足を順子は止めた。
まずめの朝日が出、逆光に照らされた順子のシルエットが、小さく揺れた。
「天然の鯛を食わしてやると ! 聞こえたかや!!」
春風は気まぐれを起こす、急に機嫌が悪くなった。
スカンポ=帆=を張ろうとする京平は、エンジン音を遮ろうと口角泡を飛ばした。
「違う・・・養殖とか言わなかった?」
「言ったァ、それがどうしたっ!?」
「・・・人間は養殖されていたのかも知れないわ・・・」
エンジンの排気が黒々とキャビンに流れ、時間が三秒止まった。
繋がった時間の中に黒い集団が生まれていた。
舞台の黒幕が開かれたような展開であった。
「なんだありゃ?」
ブイのような半円で黒いものが橙の海に揺れていた。
ひとつ見つけた時には、それは十個程に増えていた。
十個確認した時は二十個になっていた。
京平は船長室へ入り双眼鏡を取り出した。
回転窓から慌てて覗いた。



・・・人だ・・・頭だっぺよ
また死体なのかと胸に爆音が衝上げて来る。
だがそうでは無かった。
飛沫が交差し、上空のカモメが数羽、陸地の方を目指して、逃げ去った。
沖合い八キロで集団で泳ぐ人間はあまり居ない。
例えば何らかの訓練で集団水泳があったとしても、それには監視船が付き物
である。八キロ沖合いなら、なおの事だ。危険極まりない。
見渡せば見守る船は一隻も居ない。
どうやら死体よりも恐ろしい者がやって来たようだ。
黒い頭がどんどんと近づいてい来る。
そして今や表情の無い顔もが、はっきりと見て取れた。
・・・さあ、何が出ようと言うんだい・・・相手になるべ・・・お客は守るさ
京平には一度喧嘩を始めたら、どちらかが死ぬまで戦う根性があった。
遠のいたはずのアカクラゲが、未だ消えぬ太白星と笹島丸を、交互にじっと見つ
めていた。