箱舟が出る港 第五章 二節 軍神たち 六

日輪が濃霧を払い、群青の海と抱き合った。
時の流れは永劫に続くのかと。


続かねば面白くないではないか、と海。
私が燃え尽きれば、、時は止まるではないか、と太陽。
その気配があったら逃げると、海。
与えたのは私のはずだが、と太陽。
さあな、と海。




笹島京平は=みよし=と呼ばれる舟の船首に立ち、迫り来る一団を睨んでいた。
若潮がゆったりと一面の古い垢を駆逐し、究極の透明をこの海に展開させた。
海に関しては敏感な京平は、思わず眼前の一点に惹かれた。
在るのなら、まるで深淵は竜宮の城も見通せるかのような、透明さである。
神秘の澄みはいつだって何かを迎えに来るようだ。
嵐の中、命からがらに逃げ出したという仲間の話しを思い出した。
大山鳴動の荒れ狂った大波に飲まれたが、不思議に恐怖はなかったのだと。
生きている事は湿った苦痛に思えるほどの柔らかさだったと。
動静の違いこそあれ、同じ性質の透明なものが見えた事を連想させる話しであ
った。
あながち昔話しも真実なのかも知れないのだが、まるで夢の中の出来事であり、
現実として認識するには、材料が足りなかった。
険のない透明な広漠は何者かの棲家なのだろうか。
覗く一点が、やがて渦を巻いた。
経験の中で渦潮は千種の様を呈し、接しているが、目前の前衛舞踏の如く踊る
潮は、京平に新しい世界の可能性を提示しているかのように、斬新なものからの
招待かも知れない。
渦は鏃に形を変え、海底に潜った使いを、京平の前に引っ張った。
飛び出したのは深海魚であった。
その名をリュウグウノツカイと言う。
職人は海底の港に続く橋梁の建造を今終えたばかり。




リュウグウノツカイは肺のありかを忘れたのか、虹の形に飛翔した。
イルカの跳躍にも似たその歓喜は、使える者の期待に応じた誇らしさを醸造して
いた。
二度三度と空と海を撥ねた使いの者は、赤クラゲの側に首だけを残し、動きを辞
めた。
気づくと剣持順子が京平の肩に手を置いていた。
笹島丸は都合二十三の無表情な人面と、二匹の魚介に囲まれた格好になって
いる。
奇怪な光景であったが、京平にも順子にも恐怖は無かった。
やがてみよしの正面に浮かんだひとつの人面が、縷々と舟に近づいてきた。
他の顔々は身動きしない。
三メートル程に隣接した時、その顔の動きが止まった。
年のころ十四、五歳の少年の顔が、京平と順子を見上げた。
聞いた事がない軽やかな音楽が流れた気がした。
天使の降臨の日にはきっとこの音が聞こえるに違いない。
・・・これは、と順子の胸が高鳴った。
懐かしい、懐かしい胸の高鳴りであった。
「箱舟が出る港をありがとう、ママ」
鈴が転がるような声、変らず表情は無いが、その眼が微かに揺れた。
「ああ・・・やはりあなただったのね。・・・私の息子・・・赤ちゃん」
「さよならを言っていなかった・・・ごめんなさい」
「何が起こったというの、これから何が始まろうというのよ・・・?」
充血した眼を洗うように、大粒の涙が流れた。
苫小牧からのフェリーの汽笛が、遠く大洗港の空の方角に広がった。
「この世に生まれる前、僕は違う惑星で戦っていた。慣例儀式として今までなら
過去を消され、何も知らずこの地球で一生を、そう、ママとパパに囲まれて送る
はずだったけど、事情が違ってきた・・前世の記憶を引き連りながら、最終決戦
の場はこの地球に用意されたようです。僕たちは人間の進化の形です。
心にあるものは善だけです。人間社会の心はこの後このままでは、どう足掻こう
が不変です。悪が善を上回っている。崩壊を防ぐ為には、介入が必要だったの
です」
リュウグウノツカイが迎合したように顔を上下に動かした。
「おらには何の事かわからねえ・・・それどころか、これは白昼夢と思ってるべ。
こんな現実があるもんかい。順子さんのようなとびきりの美人がおらのとこへ
出てくるから、おかしいなや、とは思っていたが。やめ、やめ・・・さて、寝た方
がましだわな、ひと寝すりゃ、夢も覚める、港に帰るべよ」
みよしに腰を降ろし、京平はセブンスターに火を付けた。
「夢などではないよ、京平。ワシが問答しよう・・・いいかな? 人魚くん? そして
順子さんとやら?」


振り返る京平の眼に、濃人権市の干からびた顔が映った。
「権さん?  おめぇ、どこに居たァ !?」
驚いた京平は海に落ちそうになり、慌ててアンカーに捕まった。
こんな事しちゃいかんと煙草の空箱を権爺は拾うと、みよしに寄って来た。
「船倉だ。夕べ酔っ払って寝てしまってのう。家に帰るのが、面倒になって」
がははと高笑いした権市だった。
京平と順子を押しのけ、権爺はみよしにあぐらをかいた。
興味深そうに海に浮かんだ人面を見回した。・・・獣心はないようだの、と。
「人魚くんの言う、港、とは子宮の事じゃろうて。刹那的風景を見た人間は、
たまに居るらしい。この世への生誕の瞬間を、な。しかし箱舟が出る港、とは穏
やかではないな?」
「・・・・・」
海は、黙って、いた。
「命は永劫にあまねく行き渡る。形を変えながらだ。草か樹木か昆虫かは知らん。
覚醒する事は無かったが、の。前世を記憶する者が現れた以上、この宇宙の
仕組みが解明される事にも繋がる」
「・・・・・」
「宗教論を言うつもりはない。ワシは無宗教さね、概論も知らん。哲学論も
知らん。廃業じゃろうな、宗教、そして哲学者は。いや科学体系の崩壊もし
かり、全ての学問は無に帰す。尤もそれまで持つかどうか知れんがな」
「・・・・・」
「戦っていた、と言うたな? 破れたのじゃろう。その空間に逃避したのじゃ
ろう。人間界の港に辿り付いた。ワシは前世の記憶を聞くつもりはないよ。
君達が過去居た世界を想像する事も辞めよう。何故か? 人間としてこの地球
に生を受け、幸せに生きたワシは、ワシ自身の前世を知る事が怖いのじゃ
よ。問えば恐らく君達は教えてくれるだろう、知っている事じゃろう。
またワシが問わなくとも、君達がここに転生した以上、おのずから過去を知
る事になるかも知れん。何者かは知らんがよくぞ記憶を消してくれたと感謝
している。君達はつらいな、やり直しが利かない。戦う定めを持った命のよ
うだ。そして筑波山に現れた奴らも、重い痛みからの逃避じゃったはず」
「・・・・・」
「・・・黙っているというのかい? 清談と認めたかの? ならば甘んじて続け
よう。この世界は入れ子構造の何処に在るのか? マトリショーカだよ、我が
子孫にして先祖の君達よ。ロシアの民芸品のアレだ。知っておるだろう、
人魚くん。フラクタルと数学では、言うようじゃな」
「権さん・・・権さんよ・・・あんたは、いったい?」
繋がれた冷たい順子の手も知らず、 ただ立ち尽くすばかりの京平だった。