箱舟が出る港 第六章 一節 残照 十

murasameqtaro2007-03-30

ちえ美は思い切り泣いた。
涙の雫に、蟻が駆け寄るように、
集まって来ている。
降らない雨が恋しいのか、
ちえ美にいたわりの言葉を
送っているのかは、
それは分らない。
ヒメハルゼミの祈りにも似た
清らかな咆哮が助けているのだろうか?
それも、迷うところではある。
ただ、ちえ美には曳航される気持ちが強い。
光りが見え、洞穴の中を出る感じがする。
心の中にあった黒いものを捨てさせ出港する、
闇を疾駆する恰も箱舟の存在がここにあったような気がする。
慈形さん・・・ちえ美は泣きべそ顔を上げた。
「落ち着いたようだな、チーコ。いい事を教えよう・・・兄者が、
来ているよ」
震えが治まった事を知った慈形は、抱きつかれたちえ美の手を、
後ろ手に触った。
「ええっ!? ・・・に・・・兄さんが・・・どうして?」
乾かない涙の中に、驚きと安心が交差した。
「ある物の調達という事らしい。ま、詳しい話は本堂でしよう。
会わせたい少年もいる。いい男だよ・・・ふふ・・・」
慈形は抱きついたちえ美の手を、ゆっくりと振りほどくと、悪戯っぽい笑みを
空に投げた。
「今はまだ始まりだね、始まりには終わりが・・・必ずあるものだよ、どんな
形で終わるのかは、現在模索中 ! 私の恋は振られて終わり!! 頭が良すぎる
私とは、どうにも付き合いきれないらしいな」
鍋島慈形は、高笑いしながら、今度は両手の一指しゆびを空に上げた。
優しい人だ・・・ちえ美は改めて慈形の人格に感動した。

サザ・・・・
一陣の風が吹いた。
慈形が去り行く姿を見守るように、樹木が、幾千とも知れない種類の草花が
昆虫が、
ありとあらゆる宍塚大池に住む生物が、体の中に隠された安堵の思念を、
改めて確認するかのように、一斉に重ねては送っていた。
髪を風が過ぎる。
青葉を友とする風の流れ方だった。
やはり只者ではなかったのね、慈形さん・・・
前を歩く大きな背中が思い出のスクリーンとなる。
初めて兄に紹介された日の事を振り返るちえ美だった。



外は朝から三十度を超えているはずだが、薄暗い本堂の中は冷やりとした。
左に阿形、右に吽形の金剛力士像(仁王)に守られようにして、中に立った
阿修羅像が、ちえ美を静かに見下ろしていた。
線香が流れ、うす曇ったその前にも、ひと回り小さく座っている仏像があった。
仏像は禅を組んでいるような格好であった。
「とうとう、その悟りまで来たね、龍一、そして磯前晴海くん」
ちえ美は兄の名を呼んだ慈形を、不思議そうに見上げた。
「慈形さん・・・兄は何処 ?」
「目に写る姿が必ずしも正しいとは言えないんだよチーコ。彼らは今、仏に
なっている。その仏像が二人だよ」
微動だにしないひと回り小さな木彫りの仏像にちえ美は指をさした。
「・・・これ? これが兄って事 ?」
「そうだよ、今から戻そう、このカオスに。二人は今、神の領域に居る。仏像
に溶け込んでいるんだね、なり切っている。精神の統一もここまでくれば、見事な
ものだ。無我の境地はこうまで人の姿を隠してしまうんもんなんだよ、
な、チーコ」
何度となく目をこする、ちえ美。
後ろからではあるが、どう見ても生きている人間には見えない。
ちえ美は骨壷を抱いた気分になった。
ただ、空手の達人の兄の形、という記憶は、形而下にぼんやりと認められる。
「迷わせると、君のハートにまだ悪いだろうからね。さっそく帰ってもらおうか」
鍋島慈形は、左側の仏像の腰の辺りに、膝をついた。
そのまま軽く右膝を仏像の腰に当てると、渇、と気合を入れた。
間を置かずもう一体にも同じ事をした。
二体の仁王像、阿修羅の怖い眼が遠くなって行く。
氷の彫刻が太陽の光を浴びて溶け出すように、木彫りは丸く形を変えていった。
陰影が少なくなる。
陽炎が仏像の輪郭から出現し、酸素に幾何学的なゆらぎを与えている。
あっ!!
ちえ美は思わず叫びそうになり、口を押さえた。
阿修羅の眼がさらに遠のく。
やがて黒と茶の陰影がすっかり消え、生ある人の形が、脱皮のように現れた。
「・・・今日はこれで終わりか、慈形」
空手着に身を包んだ巨漢が、のっそりと立ち上がり、にやりと振り返った。
「お ?  おめぇはちえ美じゃねえか ! 今帰ったか、よしよし!!」
立花龍一はさあ来いと腕を大きく広げた。
ちえ美が兄に抱擁され、再び泣き出した。
もうひとりも長身であったが、こちらは細身であった。まだ若い。
「晴海くん、気分はどうかね? 」
少年はこくりと首を縦に動かす。
こころなしか、少し迷っているような表情であった。
その肩に宿った奇妙なウロコが小さくなっている。
しげしげと見つめた慈形は、よし、と頷くと踵を返した。
「酒の用意をしよう。主人公は宇宙で、太平洋で、そして地球であらかた
出揃ったようだ。いよいよ本格的な戦いの幕が開く。過酷な物語はこれか
ら始まる。チーコ、君もこれから、ステージを移す事になる。
そこは戦いの場だ。酒の用意が出来るまで兄者に甘えるがいい。今地球で
何が起こっているかをよく聞くがいいよ。晴海くんには例のジュースをお出し
する。では暫しの時間を・・・」