箱舟が出る港 第七章 二節 激動の波頭 六

 どこからともなく流れる、ユーミンの歌が耳にはいると、繋いだ手がいっそう
強められた。
 少年も少女も、新宿の雑踏の中にいる事を忘れ、草原の中で青い香りに包まれ
たように、清楚な酔いが周っている。
 かい人二十面相事件、豊田商事事件、日航ジャンボ機墜落事件など、大人に
とっては見上げる太陽が釘だらけになったような、暗鬱な印象をあたえる遅夏で
あった。ロス疑惑三浦和義事件も解決近しとの週刊誌の広告が、電車内に
張り付いている。
 ソフトクリームをなめながら、互いの手を取り合い歩く道程。
それほど食べたくなかった少年であるが、恋愛の各駅停車の中には、必ず売って
いる。
ひとつの駅を通過した。
 今日にも大人になってしまうかも、知れない。


 教室で斜め前に座った少女に、教科書を見る振りをしながら顔を赤らめると、
背筋に、ここちよい地震のようなものが発生し、鳥の羽がその上をなでている
感じが、決まってする。
 隠した視線であったが、とうに看破されていた。
 いつの日だったか、視線がクロスし、ピンクの火がスパークした。
 この子も僕を好きなんだと確信した少年は、ある日曜日、少女にデートを申
し込んだ。
 いいわとうつむいた少女であった。
 初めて繋いだ手を、洗わない、と二人はお互いの目を見、微笑んだ。
とても小さな恋であったけれど、視界が高く、なんでも出来そうな気がした。
つまらない大人の事情は、全く関係なかった。なんでも出来るけれど、この人
がいるなら、何もいらないと互いに思っていた。
 上野へ出た。
 不忍池でボートを借り、押し出す少年。怖いわと言いながら、ボートに移る
少女。
 池の真ん中ほどまで漕いだ時、近くを行く他のボートの波紋が悪戯をし、
ふたりの体がゆれた。
 池に落ちそうになった少女は 少年のコットンパンツの裾をつかんだ。
手をとり胸に少女の体を抱き寄せた少年は、ふくらんだふたつのものを知った。
沈黙の時間が少し流れ、少年は黙って木が茂る、誰もいない池の端にボートを
移動させた。
 少女は描いたストリーを演じるように、目を瞑った。演技できない唇は微か
に震えている。
 破裂しそうなハートを押さえ、唇を重ねようとした時、少年は何かの気配を
感じた。
 ・・・誰かに見られている
 他のボートは小さい。遠くにいる。木陰ボートを見つけるものは、限られて
いた。
 少年は空を斜めに見上げた。ぎょっとした。思わず少女の手を握り、ごらん、
と慌てて叫んだ。
 ぽっかりと空いた黄土色の穴が、月より多少大きめに、空に浮かんでいた。
そこから人影のようなものが見えた。こっちを伺っているように見えた。
急いでズボンから、野球観戦用のオペラグラスを取り出した少年は、その丸い穴
へと目をやった。
 三人の男がいた。
 真ん中にいる男は、眉間の上にほくろがある。左側には柔道着を着た男。
右には、軍服のような黒い服を着た男。三人の男がなにやら話し合っているよう
だった。
 どうしたの、と少女が不安そうな顔で、抱きついた。
 オペラグラスを外した少年は、その白魚のような少女の両手を引き寄せた。
少女の十二本の指を手に取り、何でもない、大丈夫だよ、と、自分の十二本の
指をからませ、今見たものをなんとか忘れようとした。


 ある宇宙のある惑星の1985年の小さな風景であった。