箱舟が出る港 第六章 一節 残照 二

「今じぶん、誰だ?」
二重、三重の関所が、ある。
理研究棟ほどではないが、それでも現金、小切手、手形、印鑑等の重要なもの
がある部署である。
屈強な警備員が、24時間体制で守っている。三キロ先に、つくば学園警察署も
ある。
今時間来るものに鈴元に懸念が過ぎったが、セキュリティを復習し、声をかけた。



「織原研究室の者です」
「・・・なに、織原さんの?・・・ご用命は?」
「試験研究費の納品書が洩れてました・・・」
「君、名前は?」
理研究棟に勤務する者の名は殆ど知らない。
製薬業界はどこの会社も機密保持が異常に高い。
一度も顔を会わせていない社員が、数多くいるにも関わらず、そう聞いてみた。
「小貫と申します」
「・・・金額はいくらかな? 決算が近いので書類は早く上げて欲しいと、経理
部長名で通達のメールを流したはずだが? 遅いくらいだよ?」
「三千万です。今しがた荻原取締役薬理部長名で決済されました。鈴元さんも
忙しいから至急計上するように、と。経理課の灯りが点いているからと
・・・」
「荻原部長か・・・三千万は大きいな。計上しないわけにはいかないか・・・
しかたがないな」
織原研究室。病理研究棟の五階の窓に、ブラインド越しの灯りが漏れる。
三千万、大きい買い物だ。
業務部調達課からは何の連絡もなかったが、と思う鈴元だったが、荻原部長名
なら仕方あるまい。次の次、代表取締役社長候補との噂の中の人物である。
内鍵を外し、ノブをカチャリと開けた。



扉がほんの隙間を覗かせたとき、黒い靴が室内に入った。
開けたものを閉じさせまいとする意思のある入り方であった。
がっちりとした長身の男に続き、背後から二人のサングラスの男が現れ、
小柄な方がドアを閉め、鍵を掛けてしまった。
「・・・なんだね、君達は?」
電話と防犯ベルに急いで目をやったが、後の二名が背後を素早く制した。
「納品書を届けに来た、そういったはずだ・・・鈴元さん?」
フトコロから出したピストルが室内を消している。
極寒の冬の中、凍った井戸に放り投げられた気がした。
「な・・・何が目的だ・・・?」
両手を上げた鈴元は、銃身越しに男の眸を見た。
吊り上った細いその眼の奥には、角膜も瞳孔もレンズも見えない。
糸筋のような細さの奥を読むことは、他人には叶わない程の冷たさを表
している。
網膜という目のスクリーンには、地獄の光景が投射されたかのような、
男の生き様歴史が上映されているような物腰でもあった。
「あんたの命、と言う名の納品書と引き換えに、例の一匹を貰おうか」
鈴元は机の引き出しをチラと見た。
写真こそ極秘裏にあるが、一匹など知らなかった。
「あの写真が欲しいのか? 俺は何もしらんぞ!!」
でかい声を出すなとサングラスの二人も拳銃を出した。
「写真などではない。知らないとは言わせない。扶桑新聞社の雨貝雅之から
二匹受け取ったはずだ。その内の一匹は病理研究棟にあるらしい。残りの
一匹をお前は知っているはず。どこに隠した?」
低い鼻、薄い唇が、鈴元の顔を舐めるように近づいた。
男は腰を屈め、自分の頭をぐいと鈴元に押し付けた。
口臭が強い。あれは何の匂いだったか?



・・・そうだ、キムチ・・・か?
「知らないものは知らん。俺も命は欲しい。ウソなど言うもんか!!」
「怒鳴るなって言っただろう」
小柄なサングラスが鈴元の足を払った。
鈴元かて細身ではあるが、180センチ近い長身で、学生時代少林寺拳法
の二段を取っている。
体が回転する瞬間、鈴元は思った。
これは空手などの武道や喧嘩技ではない・・・例えばアメリカの
グリンベレーや、ロシアのスペッツナズのような特殊部隊が使う戦争技、
殺しの技である。とすれば日本人らしき侵入者は陸上自衛隊の特殊部隊員か?
陸自だとすればウジの何を狙うというのだろう。
あのウジには思った以上の巨大な秘密があるようであった。
決算書の暗号化どころではなかった。人情がなせる復讐どころではなかった。
もっと深いものを知っている、巨大な組織が存在したのだ。
転倒した鈴元は足が折れた事を知った。とても逃げられないが命は欲しい。
「俺達には時間がないんだ。どうやら本当に知らないらしいな。ならば
それでもかまわない。雨貝を当たるさ。顔を見られた以上、悪いが納品書は
受け取ってもらうよ。あの世で決算を組んでくれたまえ。しかしお前の国の
警備員とかも図体のわりには弱いな、素手で殺せたよ・・・なあ、
日本人くん」
「・・・もしかしてお前らは、きた・・・北朝鮮工作員かっ! ?俺はっ、
俺は何もしらな・・・」


ほらよ、約束のものだと、消音装置付きのトカレフが、鈴元の眉間を打ち抜いた。
今しがたまで使用していたパソコンの、10分に設定したスクリーンセーバー
月光であり、残照のように沈んで行く姿が今作動した。