箱舟が出る港 第六章 一節 残照 一

常盤製薬工業株式会社つくば研究所。
東光台と呼ばれる工業団地に建設された二棟からなる建物は、研究所らしか
らぬ幾何学な印象と違って、ホテルのような寛容さを見るものに印象付けてい
た。
区画に隣接する半導体メーカーなどの研究所と様相を異にして、シティホテル
と勘違いし、夜間飛び込んだ酔客が少なからず、居た。
よく言えば公共性があり開放的、悪く言えば業務上の秘密保持が出来ない隙
間だらけの牙城のようにも感じられる。
向かって正面の五階建てが病理研究棟、左側の三階建てが管理棟である。
おおよそ研究所という物は威厳を保つためか、重厚なグレーが主であるが、二
棟ともに濃いスカイブルーの配色で統一されていた。
清々しいといってしまえばそれまでだが、この区画にブルーの配色で屹立する
研究所はひとつもなく、目立っていた。
他の同業界企業に競争心を煽り立てる事を放棄したような管理棟が、鈴元大
樹の勤務先であった。管理棟には、総務部、営業部、業務部、経理部、生産管
理研究部の五部門があり、鈴元は経理経理課の課長であった。
常盤製薬は本社を東京の東大和市に置く、一部上場の大企業であり、業界一
位のシェアを持つ。二年前に新製品の開発の為、本社から地の利がいいつくば
市に研究所を設立した。現在では事実上の本社移転と言ってもよい。
全ての命令指示がここから出ている。連結決算の業務もつくばで行われる。


建設現場で働いていた人たちの姿を、一服入れながら鈴元は思い出していた。
手の甲に刺青を入れた中年の男、眉毛のない金髪が毒々しい若者、アル中よろ
しくいつも顔を真っ赤にしている太った女。これら基礎部分で働く人物は、
血の気多い外見を隠すことなく曝け出し、建設に危惧を与える印象を持つ。
ところが人は外見で判断出来ない。
どんなに人相風体が悪くとも、みるみると基礎工事を追行してしまうのだ。
完工引渡しは一昨年の晩秋であった。
葉が落ちた樹木が、天に何かを祈るように、枝を差し出していたのを思い出す。
人間とはたいしたものだ・・・と呟いて給湯室にコーヒーカップを下げた。
決算期を間近に向かえ、鈴元は多忙を極めていた。
いや・・・=ある計画=を前にして極めた、ふり、をしていたのだ。
たったひとりの残業である。
腕時計に目をやると、午前一時を指していた。
窓ガラスに百円ライターの火が写った。
改めて誰もいない事を確認すると、机の引き出しの鍵を開けた。
一枚の写真があった。
赤子ぐらいの大きさに成長した【ウジ虫】が強化プラスチックの中で、何かの溶液
に包まれていた。
感電する、頭髪が痩せ落ちる感じがする。
何度見ても写真の中から、飛び出しそうな奇怪な姿なのだ。
生死は分らない。
あれから二週間、ウジ虫は生きているのだろうか?
だとすれば、どんな孵化をしたと言うのか?
一切が研究棟の中で、濃霧のベールに包まれていた。
生と死か、と窓ガラスに写ったケントのタバコの火に呟いた。
天上の唯一の星に向かい、魂が旅をする。
ユングの「死者への七つの語らい」の一節を思った。
死後も人の個性は続くのだという。
死後の魂は果てのある天上を目指し飛び続けるのだという。
それならば、生まれる者もそこからやって来るというのかい、と鈴元は写真を
閉った。
転生というものを信じている鈴元にとって、ユングの心理学は捨てがたいもので
あり、座右の銘にしていた。
・・・こんな得体の知れぬウジなどに転生したくない・・・ただ俺は罪を犯し
た・・・神は?、と煙草を灰皿へ捨てた。
敬謙なクリスチャンなどではない、無宗教に等しかった。ユングフロイト
へルマンヘッセも詳しく読んだ訳でもない。
魂と肉体は別物である事、肉体が滅びた後、魂は何処とも知れぬ天上と
長い旅をして、約束の地で新たな肉体を持つ。
39年生きてきて、不惑の年を前にして、はっきりと自覚する宇宙観であった。
だいたいに置いて経理屋は几帳面な人間が多い。
性格がそうでなくとも、仕事がそうさせてしまうのだ。
獅子座のAB型文科系、占いの類は信じない鈴元であったが、その性格を一
変させ、宗教書を読むようになったのは、一年前からであった。
ウジ虫を大恩人とも言え父親のように慕っていた取締役財務部長の甥から調査
の依頼を貰ったのは三週間前。六十五歳の女性の子宮から、干からびた推定
四十歳程度の男の胎児が産まれたらしいとの噂を聞いたのが、三ヶ月前。
その髭の濃い、頭髪が落ちたシワのある顔は、いかにもくたびれた労務者のよう
だったと聞く。
そして胴体から下、つまり足が無かったと言う。あるべき場所には、コペンハー
ゲンの人魚像のような、ウロコと尻尾、水かきがあったらしいと聞く。
人が感知出来なかった世界が現れた事を確信した鈴元であった。
鈴元の大罪とは何か。
経営側の圧力に屈して、恩人とその甥を裏切ってしまった事である。
雨貝元春取締役財務部長は、大洗港の磯に釣りに出かけ、骨のみの死体を発見
した。
訝しんだ甥はライフジャケットに付着した一匹のウジを、鈴元を窓口として常盤に
調査を依頼した。
ところがである。
鈴元が研究棟に運んだ刹那、そのウジは異常に成長した。
それが必死に携帯で撮った引き出しの写真である。 存在は誰も知らない。
厚生労働省から織原なる男が出向して来た。
高飛車な役人は誰にも言うな、忘れろと指示をする。
ですが、と反論した。
ならばクビだと一喝された。
その日のうちに研究棟に閉口令が敷かれた。戒厳令といっても過言ではない、
物々しい警備が始まった。
依頼者にはウソを吐く他になかった。
つくばエクスプレス万博記念公園駅近くに、念願の家を持ったのが三年前。
今年中学と小学校に入学する息子と娘が、いる。
家のローンと教育費は不安はなかった。常盤にこのまま在籍していればの話しで
ある。
そこを去る事になれば、生活の基盤は崩壊するのは必至だった。
恩人は常盤の役員を解任された。
重度の適応障害なる病にて業務追行不可能だと言う。
商法による決議だったという。
だがそれは捏造された事と鈴元は知っていた。
環境に適応出来ない病気を患う雨貝ではない。常盤に勤務して三十五年になる。
環境は自らの家と同じなのだ。
ここが一番落ち着くね、と常々笑顔であった雨貝だった。
会社に裏切られたショックはあっただろう、未だ寝込んでいるらしい。
鈴元は復讐を企てた。
=ウジ・ナニカ・ガ・オコル・フアン・コノ・カイシャ二・チュウイ=
都合23文字、二十三円をアナグラムとして操作する事は、簡単である。
常盤の連結上の勘定科目は借り方貸し方ともに、貸借対照表損益計算書とも
に23項目以上ある。
会社の決算書の数字をいじり、暗号を作成し、世に公示する。
二、三十円程度の粉飾なら、監査法人も気ずくまい。恣意性を疑われない事
には自信があった。
問題は暗号として気づいてくれる者が現れるかどうかだ。
きっと、いる、と拳を握り締めた。
・・・その時ドアをノックする者がいた。


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