箱舟が出る港 第五章 二節 軍神たち 九

おニューなジャケット。
それは恋路へと続くものと、知流正吾は信じていた。
もっともユニクロで購入したものであるが、正吾のような鈍感で
ファッションに疎い武道家にとっては、最先端と信じて
疑わなかった。
・・・初恋だった。
それがどうだ。
わけの分らない化け物に切り刻まれ、おまけに背中に傷を負わされてしまった
ではないか。
野郎、ぶち殺してくれる。
相当走ったはずだが、息は切れていなかった。
高月美兎と化け物を追ってこの公園に殴りこんだ。
公園口で乳母車を押した婆さんが、あわわと指を指し、腰を抜かしていたが、
今は構っていられなかった。
公園のトイレからホームレスが顔を出した。
高月、ベルゼブブ、正吾の姿を交互に見ると、ズボンのチャックも閉めず、汚い
モノをぶらぶらとしまわずに、一目散にわあと逃げ出した。
逃げた方角にパトカーの咆哮が聞こえる。近くだ。友部駅前付近と思われた。
昼間なら虹の追及も優しく迎えそうなその球体は、星の光のみが安らかに
眠っている。
公園の点滅していた街路灯が、寿命を終え、今消えたのだ。
管理は行き届いて、いない。
日中でさえ人気のあまりない街外れの公園は、市長の箱物行政の悪しき賜物で
あった。
月明かりだけが、一帯を照らし、戦いを見守ろうとしていた。
喧嘩をするなら格好の場所であった。
「正吾さん、やってみる?」
球体の中に全裸で立ち、印を結んだ美兎の真紅の唇が、微かに揺れた。
「お? 俺の名を知っていたのですか? 」
正吾は美兎には目をやらず、翠陰に怒気を発しているベルゼブブの動きを見逃
すまいと、細心の注意を払いながら、すり足でジリジリと詰め寄いつつある。
こいつを倒してから、美兎に恋心を告げようじゃないか。
地面から登った陽炎のような揺れが、正吾の足に蹉跌を巻いた。
より広いがまるで相撲の土俵のような円陣である。
ベルゼブブの足元にもその、もや、が流れた。
「さあ、存分にやってちょうだい、勝負がつくまで円陣からは出られません!」
松、檜、杉などの樹木、松虫草、釣舟草、巻耳(おもなみ)、藤袴は草花、砂場、
滑り台ブランコは憧憬、それら公園を埋めていたものが、もやに包まれ消え行く
胸騒ぎが正吾の胸に充満した。
ケェーッ!!
ベルゼブブは飛翔を試みた。
三メートルほど飛び上がると、その鋼鉄の爪が虚空をさかんに叩いている。
二度三度と空間を叩いた。
結果は同じだった。
見えないドームのようなものが、行く先を遮断して、閉じ込めているのだ。
美兎の眸が白色の光りを放出していた。
正吾の周りにはもはや公園も美兎の姿も見えなかった。
変りに現れたのは、高い山であった。
いつか見た気がする。故郷の山、桜島御岳の様相を呈している。
その下に街らしき光りが見えた。もし御岳ならば、鹿児島市と思われた。
だか何かが違う。
正吾は山の頂から、空を見上げた。
そこには青い惑星が間近に浮かんでいた。見慣れた月などではない。
まるで宇宙から見た地球の姿のようだった。
何者かに背中を掴まれ、ひょい、と違う場所に放り投げられたようだ。
例えば蟻をつまみあげて、違う所に投げられたような感触であった。
蟻なら未だいい、方向に迷っても仲間は容易に見つかるはずだ。
どうあがいても仲間など見つからない異空間に飛ばされたようだ。
メタンガスのような曖昧な香りが強い。正吾の潜在意識の中は胡塵の輩が
姑息たる姿を演出した事を告げている。
やがてはっきりとした視界には、芋虫やミミズそしてムカデのような生命が羽を
纏い、周りを飛んでいるではないか。
ここはどこだと思いつつ、敵を睨みつけた。
対峙したベルゼブブは羽を大きく広げ、昆虫類特有の複眼を獲物の体に置いた。
「人の恋路を邪魔しやがるてめえのその目を潰してやらぁ!!」
正吾は突進した。