箱舟が出る港 第五章 二節 軍神たち 十

息を吸う、吐く。メタンガスのような香りだが、味は良い。
空気の味をじっくりと嗜んだ事は無いが、喉元から肺へと入る刹那、
微かな甘みを感じた気がする。
例えればガムシロップの甘さを極限まで取り除き、
初雪を混ぜたような甘味であった。
あらゆるアンプルやサプリメントを凌駕していると思われる。
力が覚醒している事を知流正吾は体を持って知った。
一方のベルゼブブはどうか。
これもまた腹部に打撃を受けた後遺はすでに癒えたようで、今まさに正吾と激突
しようとする瞬間を待っていた。
不思議な空間である。かつて鍛錬の為に上った、故郷鹿児島の桜島御岳山
頂に、ここは似ている気がする。
懐かしい草花も見え、眼下には鹿児島市内らしき薄い靄が、蜃気楼のように浮か
んでいる。
しかし、だ。
手を伸ばせば届くような近さで、惑星が覆い被さるように、意味ありげに頭上に
広がっているではないか。
青い惑星は水の惑星なのだろう、今にもその水が降りかかるような近さである。
さっきまで居た公園には月が遠く浮かんでいたが、その姿はかけらさえももない。
御岳の頂上らしき土塊と、青い惑星に挟まれるような風景の中で、二体が今ぶ
つかった。


正吾は腰を入れて頭突を入れる寸前、化け物のメカニックな足を払った。
フェントを食らったその足が、間接からがくりと傾いた。
身長は約二メートルほどであるが、手を伸ばせば四メートルの化け物である。
おまけに蛮刀のような羽を持ち、全身を金属で武装している。厄介である。
鋭い痛みが左眼に湧いた。羽を生やした芋虫が眉の辺りに付着したのだ。
「野郎!」
正吾はそこにごつごつした手で、邪魔者の所在を突きとめると、思い切り握り
つぶした。
緑色の液体を流し、ぐちゃりと手の平で芋虫は潰れていた。
化け物の体が反転するのを見た。
くるりと回り、羽根を叩きつけようとしている。空手の回し蹴りの格好である。
左目がだんだんと見えなくなっていた。
しゃがみこみ、辛うじて羽の攻撃を変すと、両足の隙間に潜り込み、後ろを
盗った。
すぐさま立ち上がり、羽に気をつけながら、首に後ろから太い腕を巻いた。
「どっせい!!」
腰に化け物の体を乗せると、強烈な首投げを見舞った。
ベルゼブブは大地に鈍い音を残し、転倒した。



キン・・・キン・・・キン・・・キ・・・キンキンキン・・・
その時またあの音が聞こえた。
何体とも知れないコウモリを落下させたあの超音波である。
二度と聞きたくないその声は、体が破壊されるような奇声である。
ジャケットをビリビリと破き、その布片を小さく丸め、無造作に耳に押し
込んだ。
キン・・キン・・キン・・キッ
・・・うっ、うるせえ・・・ダメだ
正吾は両耳を抑え、うずくまりつつあった。
なんとか体を立て直そうとしたが、頭の中を超音波の針が縦横無尽に駆け巡る。
・・・ダメだ、かなわねえあんちゃん、俺負けるかもしれねぇ・・・
あんちゃんょう!
兄の大吾の顔が浮かんだ。
兄は忘却の彼方で何かを口にしていた。
落ち着け、冷静になれ、と。
眉間にある大きなホクロ、それは兄弟としてわが身にも張り付いてはいたが、
数え切れぬほど畏敬の念を送った柔らかな兄の象徴であった。
・・・知流館秘術血車を使ってみろ・・・と聞こえた気がする。
知流館血車、かつて薩摩藩の忍者が使った技、殺人技である。
使う機会などあるとは思わなかったし、使う気もなかったその駒は、若いの
に似合わぬ腹巻の中で、お守りと化し、いつも沈黙を守っていた。
長らく封印されたその技は、駒回しに奥義がある。
・・・もはやこれは喧嘩じゃねえ、殺し合いだ。使ってもいいだろう・・・
兄貴、じ様よ。


うずくまった正吾の頭へ化け物の鋼鉄の拳が舞い降りた。
全ての気力を振り絞り、正吾は辛うじてそれをかわすと、腹巻から鉄の駒を
取り出した。破った服を紐代わりとして、駒を巻いた。
駒の下部、支点には二十センチほどの細い針が出ている。
駒を高く投じた。
投じた角度を確かめると、落下する軌道を見送った。
腕は衰えてはいない。
ブンという重い回転音をまとい、高空から化け物の頭をめがけて、血車が走った。
ズブ!!
鉄の駒は化け物の頭に見事に突き刺さり、回転している。
回転の度にその仮面にヒビが入っている。
きらきらと光る駒の支点は、ダイヤモンドで作られているのかも知れない。
異常に硬いようだ。
化け物は何とか抜こうと試みるが、すでに根元まで入っている。
やがて仮面が割れた。
その下には、例の蝿の顔があらわになった。
「こんな顔をしていたのか、おめぇ・・・俺の勝ちだ。その駒はおめえの頭蓋骨も
脳みそも砕くだろうよ。あの世への手土産としてくれてやる。おめぇの腕では使え
るかどうかは知らんがな」
ミミズの化け物とムカデが正吾の手の中で潰れていた。
「オーッ!!」
千重の笑みを湛えた叫びが、蜃気楼の街に熱く厚く流れていった。