箱舟が出る港 第二劇 二章 メタモルフォーゼ

murasameqtaro2007-10-30

樺沢取手のふたりの社員、
管理課長具円と、
生産管理室主任神岡。
ここまでの告白は内部事情の
暴露というよりも、亡くなった
山口博に捧げる
レクイエムであろう。
会社に対する背徳の念は、
一片も駆け抜けなかった。
十二畳の部屋。正面に大掛かりな祭壇と写真。
その前に山口が横たわる棺桶。
テーブルかあり、棺桶を背にして草刈が座り、右に樺沢のふたり、左に山口猛
柳利夫が仁王我王の如く座っている。狭い、息が苦しい。
時間は午前6時30分を少し周っていて、角度の良い部屋の作りの中に、陽光は
いよいよ所狭しと流れて来た。
瓶ビールの栓を開けた草刈を見ると、猛はめんどくさそうに立ち上がり、奥の
勝手場へと日本酒を探しに消えた。
通勤通学が始まる。
ドアが開けられ、足並みをそろえるように、家々を発つひとたち。
五月晴れの外は山口家とは全く関係ない時間が流れていた。
今日も30度を越えるようだ。
土浦亀城公園を真ん中に裁判所や警察署などがある官庁街であるが、実に緑が
多い。
百日草が印象的な庭には昨夜から届けられた花輪が多数飾ってる。
ただ玄関脇に飾った朝顔の鉢は弔問の人々の喧騒に壊されていた。
それはここの主人に、孫である、山口ゆか、が送ったものだった。
たまには陰湿な景色を見たいと思う究極のオポチュニストでも、遺体のある線香
匂う山口本家の密室は、間違いなく拒否するだろう。


「優秀な人との事です。ただ・・・三階・・・総務経理電算室以外の社員には、
ろくな挨拶もしないようです。僕は一階の玄関の正面にデスクがある。そこを
通過しない限り三階には行けません」
「つまり具円さんにも、お早う、の挨拶すらしなかったって事ですな・・・。
ふむ・・・樺沢取手の総務経理が落ち着いたら辞するつもりだったのだろうが、
曲者のようだね ? 」
「表面は穏やかですが、高卒にして世界的大企業の取締役経理部長まで登りつ
めた方です。権謀術数が体の中に無いとは云えません。いくら経理が優秀でも、
そこまでは行けないでしょう」
コップの中のビールの泡に包まれた気分の神岡だった。
するとギシギシと音をたてて、猛が日本酒のビンを五、六本運んできた。
また酒かと樺沢のふたりは、心底恐れもし、呆れもした。
おい、空だと草刈が云った時に、辞すればよかった事を悔やむ。
おそらく昨夜からぶっ通しで飲んでいたに違いない。
「ヒロっちゃんと一緒に仕事をしたのが、約一ヶ月弱。優秀だけれど一癖ある。
短期間だから畑山某の根性を伺えるのはこの程度だろうね・・・」
具円も神岡もドスンと置かれた一升瓶に意図を感じ取った。
このままタダでは返さないつもりなのだ!
乱暴もしまい。暴言も吐くまい。酔わせて納得行くまで、樺沢の実態を聞くつもり
なのだ!!
草刈の目が炯々と光る。アルコールより強い誘(いざない)いだ。
保守党県連会長。県議会議長。この男はやはり只者ではなかったのだ。
帰るタイミングを失ったふたりは途方にくれる。あまり酒は飲めないのだ。
今日会社を休むのはいい。だが山口の実家で一日中飲んでいた事など、副社長
の耳にでも入ったらどうなる事か ?
経営者にも関わらず、品格も常識も欠落している男である。
どういう沙汰になるか、分かったものではない。
しかし草刈、山口猛、柳俊夫の三人ほど恐ろしい男は居ないと、樺沢取手のふた
りは観念した。
最悪・・・クビは覚悟する。あるいは辞表を出してもいい・・・これもまた必然だろ
うと。
山口の死により、良くも悪くも、一皮向けた気がしたふたりだった。