直訴山本太郎議員を擁護する声…「(山本氏批判は)良識・常識・マナ

山本太郎参議院議員(38)が秋の園遊会天皇陛下に手紙を手渡した件で、閣僚を含む多くの政治家や評論家が批判を寄せている中で、一部では擁護する声も存在する。 弁護士の澤藤統一郎氏は「敢えて山本太郎を擁護する」と題しブログを更新。多くの政治家が山本氏を批判しているが、そのほとんどが「良識・常識・マナー・配慮、不適切などの曖昧模糊とした感情的語彙のみ」であり論理的に批判している人はいないと澤藤氏は指摘】

http://yukan-news.ameba.jp/20131106-146/



良識・常識・マナー・配慮、不適切。
これは先日爆笑問題の太田も言っていたが、感受性に繋がる。
良識・常識・マナー・配慮、不適切が
法の根本を構成する大きな要因の塊。
曖昧模糊ではなく常人が持っているものと
その上で構築された不適切=法を無視したのが山本なのだ。
良識の欠如、そのひとことだけで論理的批判といえる。



感受性なきものは良識を知らない場合が多い。
顕著な例が、
山本が取った周囲に無関心な行為、自己主張。
逆に空気を敏感に察するというのが感受性である。
人様への配慮に重きを置く敏感さ
というネガティブな思考は持っていない。
山本にとって周囲はどうでもいいということだ。
言葉を代えれば図々しい、
あるいはパフォーマンスということである。
これは山本が芸人ゆえ、芝居をしたのかも知れないが、
そうだとしたなら確信犯、無知より鈍感より酷い、
下卑た男である。


主観的にも客観的にも
手段と目的が論理的に結合している行為が論理的行為だ。



いったい論理的批判とは何か?
法の根本を構成する良識、
あるいは常識に対する論理的批判とは何か?
山本がした行為は果たして論理的なものだったのか?
いやそうではあるまい。



なぜならば山本自身「周囲に迷惑をかけた、申し訳なく思う」
「陛下に謝罪したい」と言っているではないか。
心からのものかどうかは知らないが、口先からは己の非を認めている。
論理的行為ではなかった、と。


手段は園遊会での手紙、目的は陛下に福島の惨状を訴える。
論理的行為以前の問題で、
それを論理的に批判しろというのは
いささか窮屈な擁護ではあるまいか。



山本は「謝罪するがケジメはつけない」と言う。


謝りますが責任は取りませんよ
 
ということだ。


よく意味が解らないw
とりあえず謝っておこう、なんだろうな。



この言葉と当弁護士の擁護姿勢は似ている。


敢えて山本を擁護するという。
この方も感受性に乏しいようだ。


ま、擁護する本当の意図は知りませんがw


非論理的行為を
論理的に説明せよと言われても困ります。


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本日はひとり娘の誕生日です。
23時台の生誕まであと一時間弱・・・
あれから17年、時は早く過ぎて、心も疾風の如く流れたようです。
何事も第三者がしゃしゃり出てくるとまずい。
特に子供の環境には、と思います。