箱舟が出る港 第二章 一節 波浪 一

murasameqtaro2006-10-04

「が、学長っ!観測衛星どころでは
ありませんっ!!」
理工学部長、木下政春が内線電話の向こうで
喚いている。
木下だけではない、男女の悲鳴が怒号が
罵声が、その後方から聞こえて来る。
木下の声よりむしろ大きい。
市島は電話口をこれ以上ない程に、
ぎゅうと耳に強く押し付けた。
「落ち着きたまえ、よく聞こえん、どうしたと言うのだ!?」
「五階ナースステーションへ‥・はっ、早く来て下さいっ!そうです、婦人科ですっ、
たった今、たった今しがた‥・」
黒く交差した沢山の声の中から、木下の狼狽した声が辛うじて聞き取れた。
「何があったと言うのだ、木下君!」
‥・早く警察へ‥・と、誰かが絶叫した刹那、市島は部屋を飛び出していた。
―――とうとうやって来たのかも知れない。
開けたままのドアが、後方でゆっくりと揺れていた。
フラスコが、机の上でそれを見ていた‥・。



五階ナースステーション。
主任看護士、森田久美枝が床に蹲り、震えていた。
「消えた、では分からんじゃないか、きみ! あわわわ、じゃないよ、
はっはりしろおい!?落ち着けっ、よく思い出すんだ森田くん!!それに
野本看護士っ! 至急だっ! 二時間前からの今までの録画を再生しろ、
保育室の監視カメラだ、急げっ!!」
常央大医学部産婦人科医長、友重司が、森田を抱き起こし喚いた。
婦人科フロアは未曾有の混乱に陥っていた。
五階を預かる十二名の看護士を初め、大勢の職員が詰めかけていた。
氷の世界で弾の無い機関銃を夢中で打ち鳴らしているかのような喧騒、
ここにいる誰もが今までの人生の中で初めて浮かべた表情に間違いなかった。
「どうして、どうしてなの!!」
声色は分散するが、発するのはその言葉の、絶叫ばかりの統一だ。
友重の眼は、ふと窓の外を見据えた。
―――なぜだっ?
瞳が自分の肉体から抜け出したように意思に相違し、勝手に走っている。
―――ツクツクボウシが泣いている‥・ああ‥・泣いている‥・
‥似ている、似ている‥同じゃないか‥・さよならの咆哮に、似ている



「何があったのだっ、君たち!?」
木下を伴った市島が、息を切らして保育室へ入り込んだ。
「‥・ごらんの通りです、昨日生まれた子供が、赤ん坊が‥・全員‥・消えて、
きえて‥・しまいました、しかも二十三人‥・全員です‥・」
保育器の中には、誰もいない。友重はそれだけ告げると、ふらふらと床に倒
れた。
パトカーの咆哮が慌しく聞こえた。
「教授会を至急開く、全員召集だっ! 誰か連絡をしてくれっ、それから伏見君に
警察への対応を宜しくと伝えて欲しい!!」
市島は振り返った。秘書の大林順子がいた。
大林の耳に囁いた。
―――高根沢総理及びホワイトハウスに連絡してくれたまえ」
それだけ言うと、市島は白衣を脱ぎ捨てた。
白衣で額に浮かんだ大粒の汗を拭った。白衣一枚ではとうてい拭えそうにない
恐れの汗が、噴出していた。




「うん? 騒がしいな、パトカーの音だ、何かあったらしいぞ!?」
菰野が鼻に一指しゆびを当てた。
ほぼ同時に内線が鳴った。携帯も同じだった。
「全貌が明らかになるかも知れない‥・」
あらかじめ用意していた台詞のように、山下が呟いた。
火のついたままの煙草が床に落ちた。



母親がいた。
常磐線水戸駅のホームで母親は古い友人と偶然に会った。
話が弾むにつれ、繋いだ手が風船のように離れてしまった。
その隙にヨチヨチと歩いた二歳の子供が線路に落ちた。
母親が気づくとスーパーひたち号がそこまで迫っていた。
あああああああああっ!!
ダメだっ!!
母親もホームに居た沢山の人々も絶叫を放った。次に起きる惨劇を誰もが覚悟し、
眼を覆った。
「このバカ母親がっ !!」
キーン、キッ、キー、キッ‥・キ・・・キ・・・・・
スーパーひたちの運転手は、避けられない惨劇の長い音を呪った。
刹那風が鳴った。
大型ハリケーンが数秒の間に現れて、そして消えた。
子供は向こう側のホームで美少女に抱かれて笑っていた。




「ああっ・‥ありがとうございます‥なんと、なんとお礼を言ってよいのか‥・」
母親は泣き崩れていた。
―――良かった、良かったわ・・・ごめんね
母親は子供を思い切り抱きしめた。
三人を中心に大きな輪が出来ていた。
「見えましたか?」
中年のサラリーマンらしい男性が、若者に話しかけた。
「見えませんでした、残酷かも知れませんが、見ようと思ったのです。ホラ‥」
若者は携帯を手にしていた。
「これで、撮ろうと思いました、ポケットから出そうとしましたが‥・僕は
不謹慎な男のようです‥・だが‥・間に合うはずがなかった、携帯で撮れる
はずのない絶望的な時間でした‥・仮に助けに行っても‥・僕も死んでいた
でしょう」
「俺も同じさ‥あの子を助けられる時間はなかった‥君と同じように‥」
サラリーマンはポケットから携帯を出した。携帯には汗が光っていた。



「‥人間て・・なんなんでしょうね?」
呟きに、二人は振り返った。助けた美少女が呟いたのだ。
中年と若者は顔を見合わせた。
‥‥‥?
「ボク、いいのよ、お礼なんていいのよ、生きてよね、これからもずっと、
ずっともうすぐXXXXXになるわ‥」
「あのう‥どうかお名前だけでも‥」
哀願するように、興奮した母親は少女を見つめた。
「・・・高月と申します、これからは気をつけて下さい。次を担うのです
から‥・」
美兎はスカートを翻し、やって来た土浦方面への電車の中に消えた。
おい、もうすぐXXXXXになると言ったな?も うすぐ何と言ったのだ?
旅行者らしい団体が論議している。分からない、日本語ではなかったような‥・。
  


走り出した電車から、美兎は見ていた。何を?
今助けたばかりの親子と、野次馬か?そうではなかった。
キオスクの後ろから、二つの影が出ていた。
終わらない夏の光りまともに受けたキオスク。
販売員が飛びだした、誰もいない建物の後ろに潜んでいるようだった。
その何かは憎悪を纏い美兎を見つめていた。
人間の顔に当たる部分が影になって美兎を見据えていた。
羽らしき影も伸びててる。その顔影は、
まるで巨大化した蝿のような形だった。