箱舟が出る港 第三章 一節 カタストロフィの日傘 四

murasameqtaro2006-11-01

この夜
筑波山を襲った
マグニチュード8の
巨大地震は、
男体峰を無作為に
鋭利な刃物で切断し、
いたるところに炎々と赤い赤い血管を
浮かび上げらせた。
血管は破裂し血液のような真紅の火柱を上げ、
まるで蛇に乗ったかの如く
悪魔の集団となり、くねくねと山麓まで迫っていた。
筑波山麓神郡地区。
築三百年前後を誇る家々が並ぶ、所謂日本の道百選、に選ばれている
筑波山道の、中心である集落である。



「噴火だっ!!」
強い揺れの刹那、家々から人々が筑波山道に出、振り返り振り返り男体山
を凝視していた。
赤々と燃える溶岩はより筑波山に近い臼井、立野、六所地区をすでに飲み
込んでいた。
火山弾の雨は容赦なく、死の雨となって人間の思考を進める事を遮断した。
「おいっ、早く、早くしろっ!!」
迫り来る巨大な焼夷を呪いながら、市役所職員である桜井充は妻に怒号
を浴びせた。火山弾がすでに離れの書斎を破壊し炎上している、心には
もう一秒の猶予も無いのだ。
炎熱が朦々と迫っていた。
「車はダメよっ!見てっ、逃げる人で一杯だわ!!」
ヘッドライトが破壊されたのであろう、国道125号線には夥しい渋滞の明か
りが阿鼻叫喚として規則なく流れていた。
駆け足で逃げようとする人間のシルエットが、影絵のように怪しく哀しく浮
かんでは消えていた。

ドン!!

逃げる車が火山弾の直撃を受け爆発したのだろう。
処刑されるようにあちこちで火の手が上がっている。
「足では逃げられまい、単車しかないかっ!....しかしどうして筑波が、筑波
が....」考えている時間はない。
信仰していた故郷の筑波男体峰、それが今消滅しようとしている。
振り返るなと心は叫んでいても、彼を育んだ歴史が重く脳裏を焼いていた。
「早くっ、里香をおんぶしたわっ! !国道はダメよっ、北条方面へ逃げるのよ!!」
溶岩は臼井地区との境界である逆川まで迫っていた。
距離にしてもう五百メートルもない。
ジュウ....水蒸気が立ち上がり辺りに霧を呼びはじめていた。
くそっ!スロットルを手前に思い切り引いた。
ホンダCB400FORが爆音を上げた。
「早く乗れっ!」
ハンドルを握り、妻の手を取り離れるなと、腰にしがみつかせた。
三歳になる我が子が妻の背中で泣いていた。
ギアを思い切りローに入れた。
筑波山道の南へ南へと、反対方向の北条に逃げ平沢官衛付近を通過し、
とりあえず市役所へ駆け込むつもりだった。
神郡地区は約六百世帯、三千名程の住民が居る。
北条方面へ連絡する農道も車で動きが取れない。
駆け足でや自転車で避難している人々も多い。
単車を所有していた事が幸いだった。
「早くいけっ! 何してるっ!!」
生死を賭けた脱出である、あちこちで怒号が起こっていた。
桜井充の単車は車と人間の間を抜け、疾走していた。
近所隣の知り合いが沢山そこら中に居たが、もはやかまっていられなかった。

ドン!!

天空をも破壊するような大きな揺れが来た。
もうお終いだ、と覚悟させるような、何者も敵わない強大な音と紅蓮が一帯
を照らした。最後通告のような冷たい音が木霊している。
人々は背後に死を覚悟した。この後一瞬のうちに死ぬ事を。
最後に、最後に筑波を見たい....生まれてから今まで人々を見下ろしていた
筑波。気がついたらそこに居た筑波が、気がついたら何者かに消滅させられ
ようとしている。
男体峰は病んでいたのだろうか。
その体内に潜んでいた悪魔が眠りから覚めたのだろうか。
人々の背に氷のようのな恐怖があったが、振り返えざるを得ない正直な
郷愁もあった。どうせここまでなら...最後にと。
桜井は神郡を離れつつあった。バックシートで子供が泣いている。
このまま進めば、逃げ切れるはずだった。
しかし彼は人々と同じように、ふと郷愁に駆られ、自らの白い手で単車の
エンジンを切ったのだ。
フルフェイスを脱ぐと覚悟したように、背後をちらと、凝視した。
そこに以外な物を見た....


遮る樹木、家屋はもはやない。
地区北の臼井、立野は崩壊し夜にも関わらず、太陽よりも明かりを
演出している。
溶岩流が赤い巨大なダイヤとなり、雲をも照らしている。
揺れは治まっていたが、次が来ないとは思えない。
紅蓮の炎に照らされた男体峰は半分程姿を消していた。
代わりに、おかしな物がそこにあった。
巨大な金属体に見える。
木々を焼く光り、溶岩の光り、逃げ行く車のライト、上空に飛来したヘリ
コプターの投光、上空から見下ろす月光、光りという光りを吸収し黄金色
の我が姿を揚々と示していた。
まるでラグビーのボールを半分に切断したような鋭角が男体峰から生まれ
ていた。逆V字、山の形をしている。
グラグラと上下左右に揺れていた。
その物体は何とか、何とか脱出を試みているようでもあった。
動く度に揺れが襲って来た。
その時物体の上部のいたるところから円形の青い光りが点ったのである。
「何....あれ?」
妻が桜井の腰を強く掴んだ。
「知るもんか....ただ...もがいているようには見える...」
「山から出ようとしているように見えるわね....」
ああ....と言いかけた桜井は胸に手をやった。
動悸というものが襲って来た。
頑健な体の持ち主である桜井の胸を強い揺れが駆け巡っていた。
心臓などに疾患はない、初めて経験する感触であった。
....グッ
桜井は単車を降り、道端に転がった。
「胸が痛いっ!!」
「どうしたのあなたっ、しっかりして!!」
妻が慌てて桜井を抱き起こした。
グッ、ハ....ハ....ア...グッ!!
「あなたっ、あなたっ!?」
「...里香を...頼む...女体...女体峰は無事なはずだ...助かる...」
グエッ....
桜井 の首が、ガックリと倒れた。
もう何も言わなかった。