箱舟が出る港 第三章 二節 箱舟が出る港 六

常盤製薬工業株式会社つくば研究所。
薬理棟、織原研究室。
「それでだ、結論から申し上げる。法医昆虫学の立場から、死亡推定時刻は
2006年10月19日午前二時半前後、であると思われる」
常盤製薬研究員、織原茂樹はいともあっさりと言い放った。
「早いですね....私はもっと時間がかかるものとばかり
思っておりました。」
扶桑新聞社水戸支局記者の雨貝雅之は、名刺に目を
配り、織原の口元をしげしげと見つめた。
医学博士の肩書きがある。六十代前半に見えた。
髪はロマンスグレー、面長の顔立ちで、顔色は日に焼けている。
縦に刻まれた眉間の皺が深い。
少しバランスを欠いた印象が、雨貝の同僚の明津博には残った。
厚生労働省と我々は官民提携しておる。実は私は暫定だが、省からの出向で
ね。医師免許を持っている者は民間の医薬業界にも多いが、ろくなのがおらん
ね。常盤の奴らは、馬鹿ばかりさ」
官僚によくいる横柄で癖のある物の言い方である。



「はあ、そうですか。」
明津は軽く苦笑した。只者ではない感じを受けた。
新聞記者の推理は場合によっては警察をも上回る。
「孵化するとすれば、それはどんな蝿になっておりましたでしょうか?」
雨貝は眼鏡をはずし、クリアペーパーで軽く拭いた。
「どんな蝿かって?おかしな質問だね?ま、いい、それはニクバエだよ、
何の価値にもならん、なあ君?」
織原の隣に青白い顔の男が座っていた。
雨貝が調査を依頼した窓口、経理課長であった。
つまり常盤製薬財務部長である叔父の部下に当たる。
「...はあ...私は素人なので何も分りませんか、どこにでも居る
その...ニクバエと聞いております」
抑揚の無い声であった。


この経理課長とは何度も叔父の家で飲んでいる。
頭の切れる人物であり、自信家でもあった。
博学の徒でもあった。
その彼がなんだか元気がない。
「蝿は三千種程この日本に住んでおる。益もあり害もある昆虫さ。
害は知っての通りだ。ポリオ、赤痢赤痢アメーバ、サルモネラ...
病原体を運んで来よる。益はショウジョウバエくらいなもんさ。
進化論をはじめ科学に貢献しておる。で、君の質問の真意を言って
みようかね?未知のウィルスでも運んで来たのだろうという推理だね?
残念ながらそんな根拠は無かったよ。遺伝子情報も地球に住む蝿
と全く同じだった」
やはり只者ではなかった。
常盤に依頼した事を雨貝は悔やんだ。
何かを掴んだな....明津も新聞記者特有の嗅覚で霧のカーテンを
認識した。
何があった?
経理課長は俯いている。


「検査結果のデータを頂戴できますか?DNA情報などを」
明津は膝置いた手を戻し、胸の前で組んだ。
「私の言う事が信用出来ない、そう言う事かね?」
唇がナメクジのような動きをしてる。只者でなかった事を
新聞記者は確信した。
「織原先生、そう言う意味ではありませんよ。タダの蛆であった事は
良く分りました。しかし、私どもも子供の使いではないのです。
上に報告しなければなりません。口頭だけではなんとも....」
そんな物は無い、私が信じられねば帰って頂こう...
多分こう言うに違いないと雨貝は思った。
「ああ、お安い御用だ。私は税金泥棒の公務員だからね。
経理課長君、お渡ししなさい」
案に相違して雨貝は戸惑った。
微かに震えた手で、経理課長は茶封筒をテーブルに置いた。
「ありがとうございます。頂戴 します。あと、アレを返してくれませんか?」
手を伸ばしたのは明津である。彼は課長の微かに震えた手を
見逃さなかった。


「アレとは?...ああ、蛆の事かね? その封筒に入っているよ。ホルマリン
漬にしておいたよ」
何もかもが出来すぎていた。
用意周到なのである。
雨貝と明津は目を合わせた。
ここに居てもしかたが無い。
また反論する根拠も持ち合わせていない。
ひとまず引き上げる他になかった。
「叔父がこの度はお世話になりまして...」
立ち上がった雨貝は頭を下げた。
「何? 叔父? どなたかね、その方は?」
織原の双眸はからかうように平然と雨貝を見上げた。
経理課長がより頭を垂れていた。
雨貝は流石に驚いた。
「あのう、ここの重役です。常盤の役員です。
雨貝元春取締役財務担当ですが?」
「ああ...そんなヤツも居たな、昨日解雇になったがね、
そうだったね、鈴元経理課長?」
「...はい」
梅雨のような声であった。
「何だって!!」
雨貝は呆然と立ち尽くした。
厚生大臣とこれから約束があるのでね。
これで失礼する。...ああそうだ。水戸に帰るなら、常央大の市島に
言ってくれたまえ。メシア気取りは辞めろとな...
政界もこれから変わるだろうよ、高根沢総理も失脚するさ」