箱舟が出る港 第三章 二節 箱舟が出る港 五

ここは...冥府か?...
現れた犬の姿を見て、改めてそう思った。
...間違いないだろう
常央大病院で突然襲った胸の痛みは既に消えていた。
あの時,そう、喘ぎながら仰いだ満天の星空はスクリーンとなり、
己の歴史を写しては消えていた。
母親の子宮から出る刹那のか細い不安と混沌、
厳格なる父親に竹刀で叩き込まれた頭の痛み、
弱いもの苛めの不良を叩きのめした中学時代、
ポニーテールの少女に恋焦がれた高校時代、
推薦ではあるが念願の大学に合格した時の
両親の笑顔。
数え切れない容疑者を尋問した取調室。
妻、成美との出会いと結婚。
そして...そしてだ
もう直ぐ我が子に会えるはずだった!
やはり俺は、俺は死んだのだ.!!
嗚呼っ!なんて事だ!!
鬼頭は妻と子を思い、慟哭を発した。

直ぐに辺りの光景は一変した。
眩いばかりの沢山の光芒が点々と多々と空間を埋めていた。
何も聞こえない、前後左右も分らないが、二本の道の片方に
立っている事を認めた。
鬼頭の立つ道は微かに暁光に照らされた雲のような、
オレンジの光芒を放っていた。
どこかから投射された淡い光りの雲に乗っているようであった。
橙色したひときわ大きな光りが頭上にあった。
星だろう、と感覚的に思った。
僅かづつではあるが、大きな光りが背中の方へと移動している。
足元を見つめた。
エスカレーターのように雲の道がゆっくりと動いている。
雲の道は透明でもあり、足下にも沢山の星が煌いている。
その中に青い光りを放つ星があった。

何故か魅入った。
形は分らないが遠い郷愁を呼んだ。
...そうだ、.あれは地球だ..
どの程度の距離があるのか、それは計り知れない。
潜在的な何かが、心を押しているのだった。
あそこから、やって来た....
死んでここにやって来たのだ...
心臓に手を置いた。
思ったとおり律動がない。
律動が無いにも関わらず手が動く不条理。
つまり自然ではない。
確かに死んだ事を認めた。
ならばここは死後の世界であろう。


死後の世界を生前鬼頭は何度も考えた事がある。
天国、地獄と言う観念を考えた事がある。
天使がいると言う、閻魔大王が裁くと言う。
魂と肉体が分離する事、それは生前感覚的に認識してはいたが、
鬼頭は宗教など信じなかった。
己の信念のみが、信じるに値する宗教であった。
事実その通りであった。
ここは大宇宙の中である。
三途の川などどこにも流れてはいない。
奪衣婆の姿などもどこにもない。理路整然とした具象である。
確たる法則が在る事を何となく理解した。
相対的に宗教と言う概念は、霧のように抽象的で無責任であった。
おそらくこの道はどこかの星に続いているはずだ。
死んだ人間は恐らく自動的にその星に流れるに違いない。
人間と言うよりも、動植物、昆虫、魚、微生物....
生物という生物は死後、どことも知れぬ星へ渡る。
そこはどんな場所か?
あるいは、生命工場か..再生されるのだろうか...ふと頭を過ぎった。
そして、そこを支配する者は誰か?
何れにしても、やがて知る事になるだろう。

その時であった。
並行するもう一方の道に何かが流れてきた。
白いものが見える。
だんだんと近づいてきた。
シャボン玉のような衣に包まれて、白いものは微かに動いている。
鬼頭は凝視した。
その姿に記憶があった。
病院の中での、レントゲン写真。
妻の胎内に抱擁された胎児の姿に似ていた。
しかし足に当たる部分、そこは何故か魚のような形をしていた。


これは夢か?
幻か?
そして俺は....


同じく人間界、地球で死亡した剣持正和も、
鬼頭の後ろから、その物体を見つめていた。