箱舟が出る港 第三章 二節 箱舟が出る港 七

murasameqtaro2007-01-20

五ミリほどの厚さ、
A3サイズの茶封筒の裏に
小さなX印があった。
よほど慌てていたのであろう、
鉛筆で書かれた【X】は
カタカナの【メ】
にも読めた。
「分っているさ、
鈴元大樹経理課長...」
雨貝は拳を握り締めた。
茶封筒は市販されている素のものであった。
つまり常盤製薬の社名が入っていない。
それはこの中に入っているデータと、蛆がデタラメなもので
ある事を意味する。常盤製薬の総意ではないのだ。
バツ印を書いた鈴元の胸中を察した。
苦慮と懺悔の告白であろう。圧力がかかったのだ。
厚生族か....厚生労働大臣か...吐き捨てるように織原は言った。
国家ぐるみの巨大な圧力であろう。
何かを掴んだ事は明白であった。
政界の権力争いも背後に、見える。
黒い物が風雲急を告げている。


読むまでもない、ホルマリンに漬け、小指程の容器に入れられた蛆は
おそらく釣具屋からでも買ってきたに違いない。
持ち込んだ蛆は事前にPCに記録しているが、比較確認するまでもない。
差し替えられたに違いない。
「野郎、なめやがって....」
明津はビールを一気に飲み干した。
【ヒトの肉片とハエゲノムの報告】
茶封筒の中の書類の表題にはそう書かれていた。
「こんなもの読んでも仕方があるまい!」
怒り心頭の雨貝は、叔父を思った。
「...取締役の解任条件はなんだったかな? 」
充血した眸を明津に向けた。
株主総会による特別決議だろう。旧商法ではそうあったと記憶する。
常盤の定款がどうなっているか知らないが、現行会社法などの
法律は無視しているに違いない。問答無用との事だろう。
後ろめたい行為をするような雨貝取締役財務部長では、あるまい。
叔父さんの性格を誰よりも知っているのは君ではないか」
「ああ、早く父を亡くした俺にとって、叔父は父親以上の人間だった。
裏表がない人間だ。釣りが唯一の趣味だった。定年後税理士事務所
を開業するのを楽しみにしていたが....可愛そうでかける言葉もない....」
「叔父さんはまだ眠っているのか?」
雨貝は時計に目をやった。


午後六時半になろうとしている。
「...そろそろ眠りから覚める時間だな、叔父は解任の事実は知らん」
独立行政法人国立病院機構、海岸診療センターだったな、入院先は?」
「ああ、大洗のあの病院だ...」
「ヤツ、織原とやらは言ったな...常央大の市島に救世主のつもりは
辞めろと話せ、とかだ? 何の事だろう?」
「メシアか...市島教授と言えば脳外科の世界的権威だ。嫉妬だろうか?」
「違うな。常央で子供が消えた。何かがある事は明白だ。推測だが
常央は箱舟を建造しようと企んでいるのではないか?」
「...箱舟...だと?」
「ああ、メシアなどと言う表現はめったに使わないだろう。筑波山の崩壊、
とそこから突然出現し消えたと言う宇宙船らしき巨大な物体、
赤ん坊の消滅、そして死体だ。何かがある事は間違いない。これから
より天変地異の激動がある気がしてならんのだ」
「常央大か...私立ではあるが各分野に著名な教授がいるね」
「ああ...ある意味では在野の頭脳集団だ」
「行ってみるか、常央大へ...」
「ああ、剣持もあそこで死んだからな...」


「居ながらにして、ここに居ない。例えば光り、
を考えてみよう....光速だ。
秒速にして1.3。あの満月まで、目を瞑る時間で到達する。
時速200キロの新幹線で80日、マッハ1の旅客機で16日、
時速5500のロケットで約70時間だ。
...この赤ん坊は残像である! 。光速何かは知らない!
ヒトの網膜では追えない想像も出来ない程のスピードで
海まで飛んだのだ。
いやヒトと言うよりもこの地球文明では追えない速さだろう。
...その根拠か。
データ画像は千分の一秒でコマ送りをしている。
では次のチャプターを見てみよう。....ごらんの通りだ。
千分の一秒の世界に赤ん坊の姿は、すでにない...」
常央大学学長、市島典孝は会議室を見回した。
誰も何も言わない。...物音ひとつしなかった。
質問は以後慎め、そうは言ったが反論も期待はしていた。
殆どの教授が目の前にあるノートパソコンと、
プロジェクターから大きなホワイトボードに投射された
デジタル画像を交互に見つめていた。
どの顔も紅く、そして熱い。
...ここまでは納得したようだな
市島はひとつ、咳をした。


「運命というものがある。ここで皆さんに思い出して貰いたい。
この大学へ来られた時の事を。熱心に皆さんを誘ったのは
高根沢雄一郎だ。またその父君である故、政春氏に勧誘された方
もいらっしゃる事だろう。
三倍と言う金銭面での優遇、それはあったに違いない。
魅力的だったかも知れない。人間として当たり前の事だ。
だがそれよりも、最新の研究設備、膨大な研究費、
そしてつまるところは、高根沢親子の魅力に負けたのでは
ないかね?」
山下道則には実に懐かしい歌が聞こえた。
マリリスの歌が聞こえる。
天の川辺りにアマリリスの歌はいつも流れるものだ。
歌っていたのは、高根沢親子であった。
「昭和二十年、【一発】の核が落ちた.......それはミッドウェイ島
海底である。日付変更線近くのあの島だ。
核を最初に持ったのは日本である。多元宇宙とでも言おうか、
同時存在とでも表現しようか....それは、もうひとつの日本、ここだ。
この宇宙は【もうひとつの世界】の中の日本である! 町工場が核を開発
した」