箱舟が出る港 第二劇 一章  エピソード

東京都国立市郊外。株式会社樺沢工業所東京工場統括本部。
樺沢グループはそれぞれの会社が独立採算制を取っているが、東京工場が
事実上の司令塔である。
グループを束ねる代表取締役社長は、樺沢至、57才。 茨城取手工場の社長
でもあるが、非常勤であり、東京工場から指示を送っていた。
12畳ほどの社長室で、樺沢と、常務の佐々木孝光は、向かい合っていた。
「茨城取手工場の月次決算書が、遅いね・・・。ま新卒が七名入り彼らの教育
もあるだろう。ISOの審査も近いし、税務署の調査もある。山口君ひとりで
業務追行しているようなもんだ。今回も少し、遅れてもよいのではないか?」
髪はロマンスグレー、エンジニアであったが、弟の副社長よりは比するまで
もない柔らかな瞳を持つ。煙草をやめたせいか、腹のあたりの贅肉が、
ワイシャツを通して、見える。しきりに腰のあたりを気にしている。持病の
腰痛が始まっているらしい樺沢グループの総帥であった。
「宮城蔵王工場を始め、取手を残し全ての決算書が来てます。山口君が
どうのと言うわけではなく、これは全体的な問題です。取手を甘やかすのも
どうかと思いますが ?これで7ヶ月連続して、一番遅い。私も締切日の十日は
出身銀行に約束している。十二日までには、連結決算書を提出しなければなり
ません。銀行に約束した以上、私の顔もあり、期限内に提出しないと、
グループの信用にも関わります」
その特徴であるワシ鼻を、くい、と上げた佐々木であった。国策の銀行を定年
退職し、樺沢グループの常務に迎い入れられ、二年になる。役人独特の放漫さが
体全体から、嫌らしく湯気のように出ている。
「山口君の取手での人望は?」
「意識して壁を作っているようですね。仲良しが増えると、酒などの席で
会社の秘密をしゃべってしまう懸念があるとの事。総務会で会った、ウチの
大門総務課長が言ってました。意識して仲間は作らない。付き合いをしない
から、人望はさほどないでしょう。武士は食わねど高楊枝の損なタイプです
よ。彼にとってもストレス多く、窮屈な社員稼業でしょうな」
「取手の工場長、斉藤君からメールがあったよ。山口君も相当疲労困憊の
様子らしい。人を入れてくれと、な。私はいいと思う。五年前の大リストラ
により、取手は赤字体質から、脱却した。生産現場に人を入れるだけでなく、
全体的に人員を見直す時期だろうね」
「ですが、弟さん・・・取手の副社長がいい顔をしてないようですね。
山口君にはまだ余力があるものと思っているフシがある。土日出勤、残業、
孤軍奮闘している事は知ってます。斉藤君の言うように総務に人を入れる
事は私は大賛成です」
佐々木は自分の仕事さえ速く出来ればよい。内心、取手工場の内情など、
どうでもよかった。
「受注先の畑山取締役経理部長がこの春、定年を迎えた。世界的な
大企業の経理部長だ。しっかりとした仕事をするだろうし、取手の内情を
よく見て貰おう。暫定的に来てもらい、取手を助けようと思うが、
どうか?」
「異論はありません。財務資料は経営戦略上の大切なものです。
早ければ早いほど良いのです。畑山さんに来てもらい、その間、優秀な
総務部員を募りましょう。・・・ただ」
「また・・・弟の事かね?」
「ええ・・・言いづらい事ですが、評判が良くありませんな。取手工場の
社員を、全員鬱病にさせるとか、正気の沙汰と思えぬ事を、公言しているよう
ですな。鬱病で成り立っている会社にするとか・・・。
聞いた社員はどう思うか・・・?社員にも家族があります。これ以上無理を
させると大変な事になります。鬱で倒れ生活が成り立たなくなるとすれば、
大変な事です。その鬱が治ればまだ救いは多少ありますが、まともな残業代も
払わない。病治らず以後一家の大黒柱を失ったとすれば、訴えられるかも
知れませんよ。ここはご兄弟、弟さんの悪口を言われて苦しいでしょうが、
なんとかテコ入れをしてあげて下さい」
「佐々木君、弟は病気なのだ。病人をトップに立たせる私も私だが、アレも
苦しんでいるんだよ。総務だけではなく、取手工場全体の問題というなら
君が取手に行って、副社長の代わりに暫定で指揮をしてくれまいか?」
「とっ、とんでもない。申し訳ありませんが、私にはそんな時間がありません。
資金調達の仕事は、骨を削るようなもんですよ」
表の顔は至って常識的な言動をする佐々木であったが、楽をしたい。
「・・・そうかね。では畑山さんに、総務を中心に経営面を当面お願い
するとしよう。弟、副社長には総務の人員確保の指示を私から出しておく。
山口君の負担軽減の為、当面、面接は斉藤工場長が行うよう、
メールを入れておく」


上る階段の足元が、ゆらり、と揺れた。
立ちくらみである。
疲労ソラナックスと言う、精神安定剤の副作用で、足元がもろい。
「大丈夫すか? 山口さん?」
よろめいた山口の体を支えたのは、生産管理室の神岡主任であった。
「・・・おう? ありがとう。それよりも神岡くん、君こそ大丈夫なのか?」
神岡はここ三ヶ月ほど、午前二時頃まで残業続きだった。
帯状疱疹により、二週間ほど会社を休み、ようやく治り本日の出社であった。
神岡も精神安定剤を服用している。生産管理室も人が居ず、新規受注があった
のにも関わらず、生産計画をミスしてしまい、副社長の怒りを今日、買った
ばかりだ。一階の副社長の席から、三階の総務部まで、その声が聞こえた。
「・・・なんとか。山口さんより、五つ若いですからね・・・僕の体よりも、
家庭内に問題が出始めましてね・・・」
眼鏡越しの瞳が、憂いを放っている神岡だった。
―――なんとも随分と痩せたもんだ。中途入社の三年前、あれほど太っていた
のに。
もう一歩階段を、二人は並んで上った。
「離婚騒動が持ち上がっているのですよ。深夜二時迄残業をして、あの給料
です。220時間の残業をして、認められたのは30時間。・・・本当に仕事を
やっているのか?女でも出来たのか?と女房に責められてましてね・・・」
「・・・悪いね。残業申請とタイムカードをチェックし、申請の分しか
認めなくてね。これも職務であり仕事なんだ・・・ホントに悪い。僕も
カットする事は、本当に辛いんだよ・・・」
「なあに・・・山口さんが悪いのではありませんよ。こんな会社にしがみ
付くしか能のない、自分が悪いのです」
「・・・ま、・・・そう、みじめになるなよ・・・」
「あっ? あと一分しかありません。遅れると副社長、狂気のように怒鳴り
ますから急ぎましょう・・・」 
生産付加会議。たっぷりと三時間はかかる。
会議はいい。だが内容による。会議にも原価がかかっているのだ。
問題提起の為、それの解決決定の為。一般的には、会議にはふたつの
ルーティンがある。勿論議長も置かねばならない。
ところがこの会議は雑談が多く、無駄だらけである。小学生の学級会議と
言ってもまだお世辞に値するかも知れない。会議とは名ばかりなのだ。
副社長独壇場の雑談場であり、話は趣味の映画のDVDの薀蓄をまくしたて、
グループ企業であるタイ工場に視察に行った時の、買った女の話などが出
てくる。
―――馬鹿馬鹿しい。つまらん集まりだ。時間がない。仕事をしてたほうが
ましだ。いよいよ駄目だ。見限ろう。ちゃんと引継ぎをして。
柔軟な笑みを湛えた、世界的大企業の元取締役経理部長。畑山顧問が、
四階の会議室で山口の側に座った。



馬鹿な会議が終わった頃、時計は午後四時半近くになろうとしていた。
三時間半の無駄な時間を費消してしまった。
山口は急いで階段を駆け下り、机へ向かった。
三日前から赴任した畑山顧問が、ゆっくりと机に帰り、総勘定元帳を見て
いる。
ウィンズと呼ばれる電算システムにより、発注データが世界的大企業より
流れ、原材料仕入先、下請けの外注先へ注文を流す。樺沢工業所電算室は
これを受け、生産計画を作成し、生産管理室へ社内ネットワークを通じ流す
と同時に、売上、仕入外注加工費を計算し、インポートデータを経理シス
テムへ流す。これに関連し照合と言う業務が、経理にはあった。細かい
受注データに基づき生産した製品受入明細が受注先から送られて来るもの
を、納品側の樺沢取手工場でも相手方との数を照合する恐ろしく根気の要
る業務である。
業務は総務部の36歳のパート社員、沼尻靖枝が行っていた。
何度も目薬を落としていた。
納品した時点で売上が実現(計上)するが、受注先のデータとは必ずしも一致
しない。それには様々な理由がある。
社内、納品日報の漏れ、金属価格の変動による仮単価システム、あまり優秀
とは言えないソフト会社が作成した生産計画、生産管理システム等等。
それらの差異は受注先に合わせ翌月修正し、六月決算時には、ピタリと一致
する。
四月を終え、畑山顧問を迎えた時点で、売掛、買掛、外注とも一致しない
取引先が多かった。
山口は当然知っていた。本決算時には絡んだ糸をほぐすように、一致させ
ている。
ところが畑山顧問が、経理を見る目は違っていた。
「毎月合わせないとまずいよねぇ? 」
温厚な口ぶりであったが、畑山は不満そうであった。
一般管理費も会計伝票は月700枚。それを自分で切り自分で入力するので
す。行にして3000ほど。機械的に入力しないと間に合わないのです」 
経理マンとしては、心細いね。データ入力漏れがあるかどうか二、三度確認
しなきゃ、ね」
「確かに。でも・・・経理だけやっているわけではないので・・・」
「そうだね。これ以外に仕事を持つと大変だろう。人員はあと三人は必要だね。
だが、ここまで経理が壊れているとは知らなかった・・・。何とかならなか
ったの?」 
「人の補充は何度も上申してました・・・」
山口は恥ずかしかった。幸い税務調査ではたいした修正もなかったが、領収書、
納品書などの原始記録のファイリングが不十分で、赤恥を掻いたばかりだった。
「真摯にお願いすれば、人の心は動いてくれるものだよ、山口さん」
俺は鬱病だ、などと誰彼問わず公言する副社長に、真摯にお願いしてもどだい
無駄な話なのだ。実際問題今日の会議も、末端の社員の悪口で終わっている
ではないか。 山口のその思いを無視したように、今まで真っ直ぐに目を見て
くれていた畑山が、視線を外し
「これを修正するには、二、三人の公認会計士に依頼し、三ヶ月はかかるね」
「かかりません。慣れてますから。夏休み返上で今までやって来ました・・・」
「そうか・・・でもね、休まなきゃいかんよ、夏休みくらい取ろうよ。体が持
たん。昼飯もろくに食ってないじゃあないか?」
その時内線が鳴った。14番。生産技術室からだった。
「あ、山口さん? 給与が未だ入ってないのですが・・・?」 
「何っ? ホントかい・・・ 植竹君だね? 至急調べて折り返し電話する」
勘定元帳を置いた畑山が、「内線、何だって?」と身を乗り出し、山口の鼻
のあたりを見つめた。
「・・・給与が入っていないと・・・」 
「えっ・・・何だと? 馬鹿野郎!! あんた何やってんだっ、給与はな、銀行が
九時に開くと同時に入っていなきゃならねぇんだ。早く調べろっ!!早く銀行に
電話しろ!!」
穏やかな口調がべらんめえ調の怒号に変わった。
「・・・ご尤もです。すいません・・・」
「顧問の僕にあやまって貰っても困る。内線くれた社員に謝れ!!」
―――昨日今日来たばかりの奴に何が分かる。こうにもミスするのは、さばき
切れぬ仕事を押し付けるからではないか? 何でもかんでも総務へ行けだ
山口はそう思うもの、自責の念で胸が一杯になった。
「銀行へ行って来ます・・・」
腕を組んだ畑山は何にも言わない。
一階へ降りた。山之辺という営業事務の女子社員がパソコンを叩いていた。
「山之辺さん・・・ちょっと疲れたので、外の空気を吸ってくる・・・」
「はい」
一心に営業の女子社員は仕事をしている。この子も女性なのに深夜まで
残業の日が多い。山口の胸に碇のような重いものがぶら下がった。
黒い事務カバンの中の底を山口は確認し、玄関を出た。総務専用車に向かわず、
工場を囲む雑草地帯へふらふらと入った。
刺々しい篠の切り後が、サンダル履きの山口の足を貫いた。