箱舟が出る港 第二劇 三章 常央大学

murasameqtaro2007-11-10

本音を言えば
講義どころでは無かった。
山下道則はいつになく
早口で喋っている。
口と心を機用に使い分ける
調子のよい聖職者は居る。
聖職だけではない。社会人、大人
どころか、
子供までが身に纏う。
時としていくつのもの
器用さが無ければ、
生きていけない場面に遭遇したりする事もある。
何者かに追われている事を肌で感じる。
不器用な山下助教授は追う者の姿を捉える術を知らない。
いい意味では、純粋な男だ。
卓越した突飛な発想を持つが、反面、世間の事には実に疎い学者バカだ。


それは十日前の事だった。


研究室に一本の電話が入った。交換を介してしない。直通だった。
―――山下先生でございますか?
―――そうですが?
―――私、西橋と申します。
やわらかい声。澱みのない洗練された旋律。心なしか事務的であった。
山下は礼儀正しい営業マンの姿を想像した。
―――西橋さん? どちらの? ご用件は? 少し入りこんでましてね。参考書なら
間に合ってます。申し訳ありませんね。
―――いやいや、出版社ではありません。学術書をお売りする者ではありま
せん。
―――切りますよ。これでも忙しい身でね。
―――どうして常央大に移られたのです? 国立R大学から、来春、東大への
栄転が内定していたと・・・。それも教授として・・・。
―――どうしてそんな事を知ってるのです?
―――知りうる立場に居る方から、お伺いしろとの命令を受けましてね。文部
大臣も心配なされてましたよ。在野ではまともな研究も出来まい、とね。
―――失敬じゃないか。僕がどこで教鞭を取るか、僕の勝手だろう。
―――いいえ、勝手ではないのです。あなたの頭脳は日本の宝です。公人です。
常央は確かに私立の雄です。だが、東大を蹴ってまで移った。名誉を捨ててま
で、なぜなのです? お金ですか?
―――僕は学会で偏屈、異端児と言われている。公人 ? いいかげんにしてく
れませんか ?  お金などに興味がありませんよ!
・・・と言うものの、山下は電話をここで切る気になれなかった。
国立大に勤務する学者の人事を知りうる立場に居る者は少ない。興味とも恐怖
とも区別がつかない感触が背筋を撫でる。
―――常央になぜ行ったのです。
―――父と母の思い出だ。ふたりの一番楽しかった思い出を、もう一度呼ぶ為
だ。これでいいだろう、役人さん?
―――ふっ・・・メモリアルアゲインですと?親孝行ですか。ご両親の
思い出 ? 解せませんな? 何です、それは?
―――悪戯電話は辞めなさいよ。僕は温和だが、怒る時もある。切るぞ!
―――切ってもいいですよ。その正直さはいいが、市島さんなどに付いている
とろくな事はありません。今、そこで何を研究しているのです?
―――父と母の思い出だと言ったろ。部外者に答える必要はない。それに極秘
なのだ。
極秘・・・。
しまったっ! 
山下は電話を切ろうとした。確かに父母の思い出に関わる研究ではある。
極秘。
常央でも知る人物は限定されている。
―――やはりね。その気になりましたら、内閣官房室までご足労下さい。悪い
ようにはしません。将来を確約もしましょう・・・。独身でしたね? 美しい
伴侶もご紹介致します。くれぐれも破防法の適用も懸念される夢物語の片棒を
担がないように願ってやみません・・・
―――何っ!? 破防法(破壊活動防止法)? 僕は法に触れるような研究はしてい
ない!!

驚いた山下は大声を出した。
市島学長は僕に全貌を語っていないのか?

―――モシモシ、モシモシ!!

電話はそこで、プツンと切れた。