箱舟が出る港 第二章 三節 漂流 四

無造作にレーザーメスを当てた。
左足の太ももの裏側である。
我ながら格好悪く窮屈だが、強さを見せねばならない。
幅にして五センチ、深さ三センチほどの皮膚がぱっくりと開いた。
血は一滴も流れていない。
シリコンで包まれたものをピンセットで摘み出した。
念入りに傷を消毒すると、器用に傷を縫い、懐かしげにシリコンを見つめた。
時間にして五分程度。
もう塞ぐ事も開く事もないだろう。
そして次の人物に渡す事も永久にないに違いない。
不安な安堵と熱い戦慄が背中を押した。
楕円形のシリコンの中には鍵が入っていた。
キャンプデービット。
アメリカ合衆国大統領ケントアンダーソンは、その一室で自らの手により
自らを手術したのである。
摘出手術、その鍵、を取り出す為の極秘の手術である。
外科医であった事が幸いしたと思う。
前大統領から受け継ぎ、四年ぶりの対面である。
歴代大統領の誰よりも秘密は守れたと思う。
ひとりの来客が拍手をしていた。
日本の高根沢雄一朗総理大臣であった。



「核でも壊れない金庫の鍵さ」
ズボンを引き上げると何事もなかったように立ち上がり
冷蔵庫に向かった。
バーボンを取り出し、呆れた顔をしている高根沢に注いだ。
「見事なもんだねケント、まだ腕は衰えていないね。どうだ、
もう一度外科医に戻れば?」
高根沢がからかうように親指を立てた。
「医師では救えないものがある。君もそう言って政治家に転身したはず
だが ?」
高根沢が太ももを見つめ、グラスを受け取り苦笑いした。
「Too many cooks spoil the broth. 」
ケントも釣られて苦笑いした。
「船頭多くして船山に登るか、確かに大統領は一人だけだ。
今頃市島も大変だろう..今回ばかりは彼ひとりだ。ヤツは政治には
向いていない。唯物論者どもをどう説得してどう協力させるかだな」



日本は今頃未曾有の喧騒の中にあるだろう。市島のやつれた相貌が、
高根沢の網膜の中で揺らいでは消えた。
「あながちそうとも言えまい。ヤマシタがいるではないか?」
山下の必要性をケントが市島に進言したのは、三日前の事だった。
高根沢のグラスを見つめると、そこに彼の苦悶が浮かんでいるのを
ケントは見逃さなかった。
「....そうだった。あいつは頭の固い理工系の奴らの中でも、柔軟な発想
が出来る。もっと調査をしたかったようだからからね。見事ストロマトライト
のあの謎を見事解明してくれたおかげで、少しは救われたがね。何も隠すこと
はなかったのだよ。それ以上は何の追求もされなかった。思うところがあった
のだろうな。少し性格も変わったようだ。いい意味で、強くなった。
アインシュタインもホーキングもダーウィンも彼に言わせれば稀代の大詐欺
師だとさ。この発想が市島には危ないと写ったようだね。市島は、慎重居士
だからね。科学の崩壊だと感じたはずだ。ま、いまさら後悔しても始まらな
いさ。うん?...ああ...、それと変わり者が居たな。
一度会ったが面白いヤツらだった。確か...魚が大好きな太田垣、喧嘩の神様
菰野とかだ。彼らを味方に出来れば助かると思うね」


乗り出していた体を深くソファに沈めた。
出来る事ならば直ぐにでも日本に戻り、友を救いたかった。
その為には全国民へ向けて、覚悟を表明しなければならない。
いや、国民ではない、地球に向けて、なのだ。
即暴動が起こるのは、間違いない。
放っておいても、常央大病院も、二三日で多分閉鎖になるに違いない。
いずれにしろ、人類は滅びる事になるだろうが、最後の賭けである
残り半年なのだ...
訪米の表向きはNK国の核問題。
滅亡までの試算ではあと残り十ヶ月。
相手が核であれば、どんなに楽であったかとため息をついた。
精神安定剤を取り出し、バーボンで胃に送ると我に返ったように
ケントを見つめた。



「....ところでその鍵はコラーゲン製だろう」
「さすがだね、その後飲み込むつもりだ。金庫は永久に開かないよ。
最後の秘密兵器だからね。オオカゼ遺産さ...さて鉱物をお渡ししよう。
ミリオンダラーとやまぐもに応用した鉱物をね。....それと....Z地図だね...
わが国の最高機密を」
時間がないなと呟くケントは時計に目を移すと立ち上がった。
「足は痛まないのか?」
「There's no place like home.」
「ホーム・スィート・ホームか...確かにその通りだ.」