箱舟が出る港 第七章 二節 激動の波頭 八

 冬の海の横たわった岩に、幾千幾万とも知れない蝶が止まっていた。
 蝉は舞う雪に祈りを込め、幾千幾万とも知れぬ咆哮を放っていた。
 その体を揺り起こそうとしてる。こじ開けようとしているのだ。
―――無点にて審判を待て! この宇宙に来たからには、己が罪を謹んで
あがなえ!!
 蝶と蝉を操る者が、水平線の向こう側からぐんぐんと、入道雲のように現れ、
怒号を発した。
 それは白い三角の面をつけた、不気味な上半身裸の巨大な人影であった。
 ―――よせっ、余は・・・行かぬぞっ、そっちへは!!
 くもの巣を払うがごとく、岩は激動した。
 すると天空から赤い稲妻が光り、蝶も蝉も一瞬の火花の中でジュウと燃え落
ちたのである。
 悶え狂う、操る白い仮面が、濛々と煙を発している。
 すると岩は直ぐに人の形に変化した。
 西欧人にしては背が低く小太り、皺襞が矢のような男の目が、ぱっちりと
開いた。
 沢山の赤錆が眼の奥に宿っているようで、血管はムカデのように、くねくねと
充血している。狂気だけが溶けない赤錆の中に固まっている。
 ―――ここは、どこか?
 中年男はゆっくりと起き上がり、特徴のあるチョビヒゲを撫でながら、
周囲を見渡した。
 鉛を流したような暗鬱な明るさがだけが広がり、その他に色彩などひとつも
なかった。 だが見覚えはあった。
 ―――そうだ・・・ここは地下だ。ベルリンである!
官邸の鉛色の地下壕で、ピストル自殺したはずである。
それからどれほどの時間が流れたのであろうか。
―――余は死ねなかったのか
こめかみに手を当ててみたが、その瞬間の爆発の記憶が、無かった。
外れたのか、そうか、ならばあの共産軍どもを駆逐したのだな
男は安堵したのかゆっくりと床から立ち上がった。


「セイコウシタナ」
フラギミトリアスがにやりと笑った。
「ナニ、タイシタチカラハクワエテイナイ。ヤハリ、ジャ、ダ。
シンデモホンショウハナオラナイ。
チャツジツニ、コノコタイノアクハ、ソダッテ、イル。
ワレワレノ、シンリャクノ、イッポハ、オオキイ」
答えたクチャリアストラが体を揺らしている。
アドルフ・ヒトラーヨ、オカエリ、ワクセイ、ベルゼブブへ」
宇宙空間の中にぽっかりと浮いた一室。
鍵十字の腕章をつけた男が、いま部屋のノブを回した。
生前存在していた宇宙とは異なる次元への、記憶を持ったままの転生であった。